散歩をする 344 武蔵野台地東部の舌状台地群を歩く

八雲の氷川さまを訪ねたあと都立大学駅へ戻る道は、一本北よりの、蛇行した道にしてみました。

今までの散歩の経験から、いくつか道の選択がある場合にはより蛇行した道を選ぶと、崖線や水路を見つけることができましたから。

 

氷川神社の横にある八雲小学校は、歩道よりも1mぐらい高い場所に校庭があります。

崖に沿ったかのような蛇行した道に沿ってお店がぽつぽつとあり、1970年代の家と現代の世代交代したような新しい住宅とが混じり、ちょっとおしゃれなケーキ屋さんや食べ物屋さんが並んでいると思ったら、どこからかふとお線香の香りがして寺院への参道がありました。

お寺とお墓は、その崖のように高い場所にありました。

1980年代の目黒通りは、家具や車の旗艦店のようなおしゃれなお店が入ったビルが並んでいたような記憶があります。一本、内側にはまた違った風景があるとは知りませんでした。

 

80年代の私だったら、「すっきりと都会の風景にしたほうがいいのに」と思っただろうな、今はこうしたさまざまな年代の記憶がぎゅうっと詰められた曲がりくねった道が残っているのは本当に羨ましいと思いながら、また目黒通りを超えて都立大学駅に戻りました。

 

*平町*

 

都立大学駅の付近では、目黒通りは北東へ向かって下り坂になっています。その向こうに目黒川が流れています。

駅の南側からは、大井町線緑ヶ丘駅のあたりまで呑川遊歩道が続いています。ところどころに「緊急用土嚢」と表示されていて、洪水のための土嚢があるようです。

ということは呑川は目黒川よりも高い台地を流れていて、目黒川よりも高い場所でも洪水があったということでしょうか。

 

都立大学駅から200mほどのところで左へと曲がると、桜森稲荷があるので立ち寄ってみることにしました。

 

道を曲がった先は下り坂で、その途中に桜森稲荷神社がありました。住宅の中にポツンとある小さな神社ですが、境内へは数段の石段があります。ここも「目黒区みどりの散歩道*呑川自由が丘コース」の一つらしく、説明板がありました。

この辺りの氏神様。京都の伏見稲荷の流れをくむという。一帯に桜が多かったのでこの名がついた。お稲荷さんは農家の神様で、2月の初午(はつうま)は今も盛況。境内には大ケヤキがある。

ここでも若いご夫婦らしい二人が、私と入れ違いに参拝していました。

 

こんなに下り坂なのに、地名は「平町」になっています。北東に向かうと、今度は上り坂になり、環七に出ました。

目黒通りと環七が交差するところの、すり鉢のような場所でした。

 

環七の信号待ちをしていると、その脇に雑木林のような場所が残っていて、「目黒区平町一丁目 緩衝緑地」とありました。「緩衝緑地」知らないことばかりです。

 

環七を渡るとその先に「平町」というバス停がありました。

あのすり鉢状の場所が「平」だったというよりは、今の環七が通っている尾根のような場所の一部が「平」だったという意味かもしれませんね。

 

*すずめのお宿公園*

 

そのバス停の先はまた下り坂で、その辺りが碑文谷になるらしいことがわかりました。

桜並木が続き、その途中に「枝豆終了」「じゃがいも完売」という張り紙がありました。農園があるようです。買いたかったですね。

 

桜森稲荷神社の次は碑文谷八幡宮を目指していたのですが、その手前の公園が想像をはるかに超えた公園でした。

まるで雑木林がそのまま残っているような場所です。

「すずめのお宿公園」とありました。

中に入ると起伏のある場所の見事な竹林で、外の32度の熱風のような暑さを忘れる静かな場所でした。

すずめのお宿緑地公園の由来

 この付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住み着き、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群をなして帰ってくることからいつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。

 この土地の所有者、角田(つのだ)セイさんは、長年ここで一人暮らしをしておりましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園をつくり、多くの人々の憩いの場として利用することができることとなったものです。

 ここに「すずめのお宿緑地公園」の由来を記して、故人のご遺志に深い感謝を捧げます。

 

昭和五十六年四月吉日   東京都目黒区

土地は神のもの。私たちはそれを借りているに過ぎないという言葉を思い出しました。

 

1981年(昭和56)ごろというと、すでに自由が丘に並んで碑文谷といえば高級住宅街とおしゃれな街のイメージでしたが、実際にはもっと静かな田園という感じだったのでしょうか。

 

 

*碑文谷八幡宮へ*

 

この公園の先に碑文谷八幡宮があり、その境内の一方は崖のように高くなっていました。

境内に「碑文石」の説明がありました。

 この碑文石は、碑文谷の地名の起こりとなったともいわれ、当碑文谷八幡宮では信仰の遺物として、また歴史資料として、大切に保存に務めてまいりました。

 碑文と彫った石のある里(谷)という意味から碑文谷の地名が起こりました。

 碑文石は近くの呑川の川床に露出していた上総(かずさ、三浦)層群の砂岩で、普通、沢丸石(さわまるいし)と呼ばれる石を材料としています。

 この碑の上方には、中央に大日如来(だいにちにょらい、バン)、左に熱至菩薩(せいしぼさつ、サク)、右に観音菩薩(かんのんぼさつ、サ)の梵字が刻まれており、大日を主尊とした三尊種子(しゅじ)の板碑(いたび)の一種とみられます。高さ七五センチ、横(中央)四五センチ、厚さ十センチ、上部が隅丸(すみまる)、下部が下脹(しもぶく)れのやや角張った形をしております。

 碑文石は、昔、碑文谷八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたものと伝えられ、大日と異系の二種子を合わせて表しているので、恐らく、室町時代のものとみられます。江戸時代の名著「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」などに碑文石のことが書かれています。

 この碑文石には造立の趣旨や紀年は彫られていませんが、中世の人びとの信仰状況を知る上に貴重なものです。

昭和五八年四月  碑文谷八幡宮

 

この碑文谷八幡宮は目黒川に向かって下り坂の途中に位置しているのですが、むしろ平町を一旦越えて西側に流れていた呑川からの石が、鎌倉街道の地中に埋められ、それが碑文石として祀られたということでしょうか。

 

目黒八幡宮の静かな境内を歩き、また上り坂を歩いて環七へと戻りました。

武蔵野台地の「東部の舌状台地群」を実感する高低差でした。

 

その窪みをつくりだした湧き水の一つが、今回の散歩の最後の目的地です。

 

 

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