水のあれこれ 201 水の溢れる北上川と中津川

遠出の2日目、朝5時過ぎから窓の外を眺めはじめました。

盛岡駅の新幹線ホームもまださすがに真っ暗ですが、新幹線がすでに待機しているのが見えました。6時10分始発のはやぶさのようです。

5時27分ごろからうっすらと東の空が明るくなり始め、5時37分ごろに岩手山が見え始めました。富士山に似たようなすっとした姿です。5時48分、だいぶ明るくなって岩手山山頂に雪がうっすらと積もっているのが見えました。盛岡市内の街路樹の紅葉もきれいです。

 

テレビをつけたら、「ヨーロッパ大横断、川の旅」という船が運河と閘門を越えていく番組を放送していました。川を越える、六世紀ごろからの悲願だったという説明が記憶に残りました。

これから川のそばを歩くのになんとふさわしい朝でしょう、としみじみと観入っていたら、ニュース番組になりました。

ポーランドなどのワクチン拒否とかスーダンのクーデターとかアフガニスタンの人身売買が伝えられていました。現実の方がなんだか非現実的なヒトの世界ですね。

 

北上川遊歩道と北上川公園*

 

朝8時にホテルを出た時には、小雨がぱらつくぐらいでした。今回は4日前に行くことを決めてチケットを購入したのですが、その頃からこの2日目の天気は荒れ模様の予報でした。

あちこち訪ねるのには晴天の方が歩きやすいですが、川の周辺を訪ねる時には雨の日の様子を知ることができるのもよいものです。

 

10時13分のIGRいわて銀河鉄道に乗るまでの2時間ほど、盛岡市内を歩くことにしました。

 

昨夜、盛岡市に到着して夜の北上川を歩いた時には気づかなかったのですが、川のすぐそばまで歩けるように遊歩道が整備されていました。

さっそく階段をおりて河岸を歩きました。

対岸に新幹線高架が見えて、上下2本の新幹線が通過していきました。

ほとんど誰も歩いていない遊歩道ですが、通勤路にしているような方々時々とすれ違いました。

北上川は静かに流れていて、中洲にカワウがいました。

 

遊歩道の先は、あの北上川へ雫石川と中津川が合流する場所です。

その川合は木々と芝の広々とした北上川公園として整備されていましたが、小雨のためか誰もいなくて、しばし広大な美しく静かな公園を独占したのでした。

 

そばには、窓から新幹線とこの北上川を眺められる集合住宅がありました。この風景を見て過ごし、北上川を通勤路にできるなんて羨ましいですね。

しだいに雨脚が強くなり、岩手山もすっかりと姿を隠しました。

北上川と中津川の合流点を眺め、いったん、北上川左岸沿いに馬場町のあたりまで行くと雫石川との合流点が見えました。

 

この川の交わるところの水の歴史には、どんなことがあったのでしょう。

 

*中津川沿いに盛岡城跡公園へ*

 

中津川の流れもまた美しく、そのそばを歩くとところどころに石川啄木金田一京助などの説明がありました。

 

盛岡城跡公園の近くに木製の欄干の「しものはし」が残っていました。渡って対岸に行くと大きな「中津川治水」と掘られた石碑があり、そばにその下ノ橋の「青銅擬宝珠(ぎぼし)」についての説明がありました。

 

 慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉から盛岡城の築城を正式認可された南部信直は、築城普請とともに市街整備の一歩として城下のほぼ中央を流れる中津川に三橋を架設した。

 慶長十四年(一六〇九)に上ノ橋、同十六年(一六一一)に中ノ橋、翌十七年(一六一二)には下ノ橋が完成し、上ノ橋と中ノ橋に利直在銘の青銅擬宝珠が取り付けられた。

 橋は、その後幾度か大洪水のために落橋し修復架橋されたが、その時に流失した擬宝珠もあり、寛文(一六六一〜一六七三)と享保(一七一六〜一七三六)年間にそれぞれ復元されたと推定されている。なお、現在の下ノ橋の擬宝珠は、明治四十三年(一九一〇)の大洪水後、中ノ橋から移されたもので、上ノ橋の擬宝珠と同様藩政期の文化を象徴するものである。

 南部家所伝によると、南部家第十二代当主遠江守政行が京都在番中に勅許を得て、加茂川三条大橋の擬宝珠を写し、これを領国三戸城下の熊原川の橋につけ黄金(きがね)橋と称したという。慶長年中の城下建設にあたって、この擬宝珠を鋳直して中津川の上ノ橋・中ノ橋二橋に取り付けたものである。

 

橋の飾りひとつとっても、そこには洪水の歴史があるようです。

 

ふと近くを見たら、「盛岡市指定 雪置場」の表示がありました。ついつい「溶ければ水になるもの」の存在を忘れてしまうのですが、国土の51%は豪雪地帯だったのでした。

 

 

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