久慈川のそばの遊歩道に満ち足りた思いで、駅に向かいました。
ゆったりと拡幅された国道は「銀座通り」で、街の中心でもあるようです。駅まではもう一本川よりの細い路地を歩いてみました。
飲食店が続いている道で、朝まだ10時ごろだったのでどれくらいの賑わいになるのかわからなかったのですが、飲んべえには楽しそうな道です。
その途中に、産婦人科医院の看板がありました。お産はきっと、対岸にある岩手県立久慈病院でしょうか。
久慈病院のHPを読むと、以下のように書かれていました。
産婦人科医師の減少により、岩手県北の産婦人科医療を二戸病院に集約しました。そのため久慈病院の常勤医師は1名となり、正常分娩のみの対応とさせていただいております、できる限りストレスの少ない、自由な体位での分娩、いわゆるフリースタイル分娩をおこなっています。ハイリスク分娩は密接な連携のもとに二戸病院に搬送させていただいています。
当院では帝王切開をおこなっておりません。妊娠経過中やお産の最中に、医師よりハイリスクと診断された場合は、連携を取っている県立二戸病院へ紹介や救急搬送いたします。予定で帝王切開が必要な妊婦さんの場合はご希望の病院へ紹介いたします。(妊婦健診は32週まで受診可能です)
二戸に分娩施設があるのかともう一度地図見直すと、たしかに県立二戸病院が斗米駅と金田一温泉駅の間にありました。
ここ久慈市からだと直線距離だと40~50km、間に北上山地をはさんでいますから国道281号線、340号線そして395号線と山道を、妊婦健診や救急搬送を車で行くのでしょうか。
都内だと、産科診療所であっても分娩施設であれば自分のところで帝王切開まで対応していますし、さらに超緊急の対応が必要な場合には近隣の周産期医療センターへ早ければ搬送決定から1時間以内で搬送しています。
もちろん、現場では一人一人のお母さんと赤ちゃんが無事に分娩を終えることを目標にこうしたシステムが築き上げられて来たのですが、それだけでなく、産科崩壊と言われる時代に、さらに超緊急にも完全を求められ、そして満足のいくお産まで求められた、思い出すだけでも胃が痛くなるような時代があったからでした。
こちらの記事でsuzanさんが八戸周辺の様子を教えてくださいました。ありがとうございます。
馬淵川沿いにある八戸赤十字病院だけでなく新井田川沿いに八戸市民病院があり、ドクターヘリもある周産期センターでした。
冬は八戸は雪は少ない(青森の中では)ですが道はスケート場のように凍ります。みなさん、凍った道の運転は上手ですね。ちなみに八戸市民病院にはヘリポートがあり、どうしても長距離搬送が必要(弘前大や岩手医大)などは自衛隊が飛んでくれます。
周産期医療ネットワークシステムと言っても地域によって、あるいは世代によっても全く異なることを指している言葉だと改めて思います。
*80年代からのあの「熱」はどこへ行ったのだろう*
「できる限りストレスの少ない、自由な体位での分娩、いわゆるフリースタイル分娩」という表現に、80年代終わり頃からの「自然なお産」とか「主体的なお産」といった運動の名残を感じてしまうのですが、世代によってはそういう背景も知らないのかもしれませんね。
助産師の手でお産を(産婦人科医がいなくても分娩介助できる)と「産む力」「生まれる力」とか院内助産とか、挑ませるためのファンタジーやプロパガンダが吹き荒れていたあの熱かった時代が嘘のようです。
その行き着いた先は無事に生まれればそれでいいですという出産のもっとも根源的な願いを叶えるために、途方も無い地域差が出てしまったのではないかとこの30年ほどを思い返しています。
分娩施設が減少したのはさまざまな理由があるとは思いますが、過疎化というよりは、地域から産科医の先生方が撤退せざるを得なくなったあの時代の雰囲気があり、助産師が時代を見誤ったことが大きいという思いがますます強くなって来ました。
分娩の本質を見失わずに、それぞれの地域の生活を考慮した周産期看護を軸にしていたら、もう少し違った方向になっていたのかもしれません。
でもひと世代ふた世代違う同僚に話しても、「え〜そんなことがあったのですか」と、なかなかその時代の雰囲気というのは理解できないようです。
「もし、あの頃、こうしていれば」まとめはこちら。