記録のあれこれ 114 安倍川の流路変更と駿府城下の用水

静岡天満宮を訪ねるときに、静岡市役所の前を通りました。

そこにある説明板に、今回の散歩の答えが書かれていたのでした。

 

 

駿府城下町に清流を運んだ「御用水」と「町方用水」

 

徳川家康公による駿府のまちづくり

 徳川家康公は駿府に居を構えるにあたり、安倍川の治水を目的に、「薩摩土手」をはじめとする大規模な築堤工事を行いました。まちの用水を整備し、現在の静岡市の原型となる都市基盤を整えました。

 

御用水と町方用水

 江戸時代、駿府城に注ぐ水は「御用水」と呼ばれていました。「御用水」は鯨ケ池や安倍川の水が、小河川や水路によって市街地に運ばれたものです。安倍町附近で分流し、本流は堀に向かい、支流は現在の中心部に当たる町人地(ちょうにんち)に向かいました。この支流は「町方用水」と呼ばれ、町人地に張り巡らされた小溝によって、町の隅々まで潤していました。

 

その案内板に「安倍川の流路変更」という図があり、江戸時代の前までは安倍川は現在よりも東よりを流れ、ちょうどあの賤機山のそばの現在の安倍街道のあたりから駿府城の近くを流れていたようです。

駿府城の前にある天満宮の由緒に、「安倍川の流れの中に、雨が降っても嵐が吹いても濁流が襲っても動かない大きな石」と書かれていたこととつながりました。

 

そして、薩摩土手の途中が車道で途切れているあたりが、江戸時代に整備された「町方用水」のように見えます。

 

川を付け替える(流路変更)という発想が江戸時代にどうやって出てきたのでしょう。

 

 

もうひとつ、「静岡の由来」という石碑がありました。

明治二年(一八六九)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれてた地名の改称が藩庁で協議された  重臣の間では賤機山にちなみ賤ケ丘と一旦は決まったが藩学校頭取の向山黄村先生は時世を思い土地柄を考えて静ケ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決同年六月二十日「駿州府中静岡」と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた 以来百有余年富士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った

ここに市政九十周年を迎え黄村先生の遺徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす

  昭和五十四年四月一日   静岡市

 

 

明治というのは、「賤」という一字に対しての社会の感覚も大きく変化した時代だったのかもしれません。

 

市役所の前にある説明板や石碑だけで、この散歩の答えが見つかるなんてなんとも驚きですね。今まで新幹線で通過していたことが悔やまれたのでした。

そして、翌日に訪れる場所の答えもその案内図にありました。

 

 

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