水のあれこれ 217 市川の川の付け替え

新幹線で岡山を訪ねる途中、今まで姫路駅の東側で何度も渡ったはずの川ですが、なぜか意識にのぼることがありませんでした。

きっと「あと少しで姫路城が見える」ということに集中していたので、見落としてしまったのかもしれません。

思えば、私にとって姫路城のあたりが、倉敷の祖父母の家を訪ねる楽しい旅の始まりと終わりの境界のような場所でした。

 

その川が市川という名前だと昨年初めて知り、また姫路周辺の水源らしいことが見えてきました。

 

この市川もまた、江戸時代に川の付け替え(流路変更)が行われていたことが、Wikipediaに書かれています。

下流では姫路城付近を流れていたが江戸時代に姫路藩池田輝政によって東側に大きく付け替えられた。

 

地図を見ていると、ちょうどあの町裏浄水場のある野里の少し上流で、市川がぐいと東に向きを変えていますから、そのあたりから川を付け替えたのかと想像しました。

 

ところがWikipediaの「地理」を読むと、「古代から中世にかけて、現在の船場川が本流であったとされる」と書かれています。

 

船場川の流れをたどると*

 

船場川はどれだろうと地図で探してみると姫路城の西側を流れる川で、手柄山の南側を蛇行しながら海へと流れています。

姫路城の北側を流れる仙波川が船場川の別名のようで、そのままその水色の線を上流へとたどると、なんと砥堀の取水口でした。

 

姫路城への取水口と水路を造ったのではなく、元々の市川の流れがそのまま姫路城のそばを通っていて、江戸時代にそこから市川を現在の流れに付け替えたということのようです。

中流姫路市保城で船場川を分けるが、船場川は独立した水系(二級河川)の扱いとなっている。

この一文に、そのような深い意味が含まれているとは。

 

あの砥堀のあたりの風景を思い出してみるのですが、右岸側の白国あたりの山と、対岸の山に挟まれた狭窄したような場所の印象でした。

どうやってその場所で川を付け替えるという計画ができたのでしょうか。

平成の調査によって、江戸時代に築造された花田井堰は水位を平均11センチ下げ、明治時代に築造された護岸沿いの石積み突堤水制工は流速を毎秒4メートル緩めていることが分かった。また輝政の後の藩主、本多忠政の時代に築造された飾磨樋門と飾磨井堰も、一定の治水・利水効果があることが判明した。

 

花田井堰、飾磨(しかま)樋門・飾磨井堰、次々と興味深い場所が出てきますね。

 

それにしても江戸時代の各地での川の付け替えは、どんな発想で、どのような広がりがあったのでしょう。

 

 

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