行間を読む 136 塩田

次の列車まで時間があったので、お土産やさんに立ち寄りました。

赤穂浪士に関するもの、そして赤穂の塩が並んでいました。

 

子どもの頃から瀬戸内海の塩田について耳にしていましたし、一時期住んでいた東南アジアでも市場にはその地域で作られた塩が売られていましたから、今でもこうした塩を見るのは好きです。

ただ、10年以上前から大雑把ですが1日の塩分量6gを目指すようになってから、一時期は減塩タイプの塩を買ったこともありましたが、最近では塩を買うことがなくなりました。

10年以上前に購入した塩を使いきれずにいます。

 

でもせっかく初めての土地に来たのでと、店内を見ていたら「塩クッキー」を見つけたので購入しました。

 

*塩の作り方が劇的に変化した時代だった*

 

千種川沿いを通っていた赤穂鉄道も、塩を運んでいたようです。

 

Wikipedia塩田を読んでいて、そうだったこういう時代だったのだと思い返しました。

塩田の終焉

1972年(昭和47年)以降、日本の製塩法はイオン交換膜と電力を利用して鹹水を作り、真空式蒸発缶で煮詰める方法が公式に採用されることになった。天候に左右され、多くの労力や大きな面積を占めるこれまでの塩田は不要になり、日本の塩田は事実上全廃されるに至った。

 

「日本の塩田は事実上全廃されるに至った」とさらりと書かれているのですが、塩田を持っていた地域の生活はどのような変化があったのでしょう。知らないままきてしまいました。

 

1970年代終わり頃に、当時は公園通りのパルコの近くにあったたばこと塩の博物館に立ち寄った記憶があります。

あの頃は、塩は国によって管理されるものだったのですが、数年後にはその時代も終わったのでした。

 

1970年代ごろにはすでに、「日本人は塩分取りすぎで、高血圧や胃癌の原因になる」という知識が浸透し始めていました。

 

この半世紀は、塩の製造方法や流通方法が激変し、そして減塩の食事へと社会も変化したのですから、生活の中で塩の存在が驚異的に変化する時代だったのだと思い返しています。

 

 

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