いよいよただひたすら川と用水路を見に播磨国を訪ねる散歩も、播磨国から備前国へと向かって終わりに近づいてきました。
備前片上駅で下車して少し下り坂になった道を歩くと、数分で石造りの建物がありました。備前市歴史民族資料館です。入ってみると、備前焼の歴史を中心に展示されていました。
子どもの頃から自宅に備前焼がありました。日常の食器ではなく、茶道と華道をしていた母の茶器と花瓶だったような記憶があります。ざらざらした感触の茶色い焼き物は備前焼だと教わったのですが、それ以上知らないままできました。
展示の中に、「備前焼は水が腐らないと言われた」という説明がありました。
*西片上駅まで歩く*
備前片上駅で下車したのは、次の西片上駅まで1kmほどなので一駅分を歩けそうだったことと、西片上駅前が海に面しているのでその辺りを見てみたいと思ったからでした。
備前市歴史民俗資料館の前から住宅と畑の間をゆっくりと海の方へと向かい、備前市市民センターの横から水路に沿って海へとでました。
やはり湖のように静かな水面です。
ふと、白い四角の棒状の標識が目に入りました。
東片上村の「ニの樋」の由来
一六七六(延宝四)年、津田左源太永忠の命により石工河内屋治兵衛が二の樋を築いた。
現在は、片上を洪水から守るためにポンプを設置している。
片面にはこんなことも記録されていました。
一九四二(昭和十七)年に警察署が建設され一基を取り壊し、残りの一基も一九五五(昭和三十)年に改築され面影が一変した。
途中下車して海を見ることができたら十分と思っていたのですが、「樋」「洪水から守るためにポンプを設置している」という言葉で、俄然、風景が違って見えてきました。
もう少し、この街を歩いてみたくなりました。
駅の近くに神社があるのでそこを目指していくと、ところどころに同じ白い標識が立っています。
旧山陽道片上宿(方上津)
藤井宿四里半(約十八K)
三石宿二里半(約十K)
資料館の前からの蛇行した道は、どうやら山陽道だったようです。
宇佐美八幡宮は地図では想像がつかないほど見上げるような石段があり、参拝するのは諦めました。
どうやら津波の時に避難場所になっているようです。ここでも、社殿まで行けない人のためでしょうか、下に簡素な社がありました。
神社の狛犬も備前焼だという説明が書かれていましたが、その中に「神の御告げで、潟神村(片上村、現備前市)に祀ることとし」という箇所があり、「片上」は潟に由来していたのか、それで「洪水を守るためのポンプ場」とも関係があるのかもしれないと、目の前の風景がまた違って見えてきました。
境内の砂は、祖父母の家の周辺を思い起こさせる白っぽい色で、なんだか岡山に着いたのだという嬉しさを感じました。
西片上駅への途中に、「津山街道」という白い標識がありました。
昔は津山往来と呼ばれ、江戸時代は津山方面に行く道であった。現在の和気町福富には片上まで2里、天瀬には片上まで3里と記された道標がある。岡山藩主池田家和意谷墓所の墓石を運んだ道の玄関とされる。
ここから山陽本線の和気駅のあたりへ、そして吉井川のそばを通って津山まで街道があったのでしょうか。
もう一つ標識がありました。
片上鉄道跡
片上から柵原鉱山(現美咲町)までを走行していた鉄道である。大正8年(1923)に片上鉄道株式会社設立後、昭和6年(1931)には全線33.8kmが開通した。硫化鉄鉱や耐火煉瓦原材料の輸送、通勤、通学といった交通手段として利用されていた。
ローカル色豊かな鉄道は60数年にわたり親しまれ、平成3年(1991)に68年の歳月の幕を下ろす。現在は自転車道として復活し、清流と緑の中をサイクリングやジョギング・ウォーキングで楽しむことができる。
すごいですね。Wikipediaにはちゃんと同和鉱業片上鉄道がありました。
かつては吉井川沿いの車窓の風景を見ることができたようです。残念。
西片上駅は街よりも高い位置にあり、構内に「海抜11.7m」と表示がありました。
地図だけで決めた3日間の計画でしたが、それぞれの場所で歩いた甲斐がありました。
帰りの新幹線もまた瞬きを惜しんで車窓の風景を眺めたので、千種川を越える時に赤穂上水の取水口のあたりが見えました。
「散歩をする」まとめはこちら。