行間を読む 138 まっすぐな道から蛇行した道へ

散歩をするようになって、崖線や水路を見つけやすいのでより蛇行した道の方を選択するようになりました。

ゆったりした歩道が整備されているまっすぐな道は車や自転車からは守られるのですが、ちょっと疲れます。

 

今回も備前市歴史民族資料館の前で二手に分かれる、国道250号線ではない道を選んだのですが、それが旧山陽道でした。

 

*中世の山陽道の路線変更*

 

山陽道についてもほとんど知らなかったと、 Wikipediaの「山陽道」を読んでみました。

 

古代の山陽道は、大和朝廷と九州の太宰府を結ぶ幹線道として最も重要視され、畿内を起点に放射状に伸びる七道駅路(大路、中路、小路)の中で唯一の大路であった。

千三百年以上も前から使われていた道を歩いたということになりますね。

 

昔は山あり谷あり、川などのそばに道を造って大変だったことだろうと、Wikiepdiaを読んでいくうちに、「中世山陽道」にこんな箇所がありました。

山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされたようである。すなわち災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。

 

道というのは「自然地形を利用した」ものから、次第に整備されてまっすぐな道になったと思っていました。

「川の付け替え」だけでなく「路線の付け替え」という表現もあるのですね。

江戸時代どころか、中世やそれ以前の土木技術の歴史は「未熟」ではないものがありそうです。

 

西片上駅の近くに「旧山陽道」とあったのですが、その歴史もWikipediaにありました。

この変遷の概略としては、従前から平地部の連絡が多かった摂津、播磨では古代の路の近辺にその路線を見いだすことができうる。しかしそれでもまったく同一の場所に整備が続けられることはなく、例えば姫路付近でも南側へ断層面を利用する形での小幅な変更がなされている。さらに備前への連絡は、野磨(上郡町)を過ぎて、坂長(備前市吉永町)→和気→珂磨(赤磐市松木)→高月(赤磐市馬屋)の路線であったものが、備前市片上→備前市香登岡山市一日市→岡山市藤井へと大きく変更され、旭川を渡り、備中へと続く。

 

「道に歴史あり」ですね。

 

そして「明治時代以降」にはこんなことが書かれていました。

鉄道の山陽本線山陽新幹線、高速道路の山陽自動車道も、古来の山陽道をたどるように敷設されている場合もある、現代においても、近畿地方と九州を結ぶ機能を律令時代から維持し続けている。

 

川だけでなく昔からの道やその歴史を知っていると、また車窓からの風景が違って見えることでしょう。

 

 

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