水のあれこれ 229 久地駅から久地円筒分水へ、水争いの葛藤の跡を歩く

散歩のスタートをどこからにするかも、毎回悩みます。これはまあうれしい悩みではあるのですけれど。

 

今回の散歩登戸駅からにするか、久地駅にするか、あるいはその途中の宿河原駅にするか悩みました。

2018年に二ヶ領用水の二つの取水口は訪ねたのですが、そこからの水路はまだ歩いたことがありません。

登戸から歩けば宿河原用水を歩くことができるのですが、そうなるとおそらく生田緑地まで平瀬川沿いに歩くのを途中で挫折することになりそうです。

 

今回は久地駅から歩くことにしました。

駅を降り、目の前の交差点の横断歩道の上から二ヶ領用水を眺めることができました。

「二ヶ領用水」だと知らなければ、ただのコンクリート張りの都市河川にしか見えない風景です。

 

ところどころに小さな畑が残り、蝋梅が咲いていました。

その畑地よりも少し高いところに水路が造られているのがわかりました。右手の小高い山に沿って、緩やかに蛇行しながら水がゆったりと流れています。

17世紀初頭にここに水が流れた当時は、どんな風景だったことでしょう。

 

途中、右手の山が大きく削られて、地層が見えている場所がありました。

 

しだいにその小高い場所が少し低くなり、津田山が近づいてきました。

この辺りまで歩いて、「あっ」と閃きました。

「久地」というのは、あの「近くに小さき丘あり。かたち鯨鯢に似たり」の「久慈」と同じ意味なのかもしれない、と。

 

 

*「久地の横土手」*

 

あと200mから300mで久地円筒分水というあたりから、二ヶ領用水の右岸は削られた山ぎりぎりに沿っていました。

 

そばを通っている府中街道から多摩川の堤防の方へと道が分かれるところで、二ヶ領用水は一旦、道路の下をくぐりますが、そこに何か案内板がありました。

 

久地の横土手

多摩川に対し直角につくられた横土手。江戸時代、洪水時の水勢を弱める目的で作られた、この土手を挟んで利害の対立が激しく、工事は約三百メートル進んだところで中断した。

 

Wikipedia久地によれば霞堤のようで、その「多摩川と二ヶ領用水」にその対立が書かれていました。

多摩川と二ヶ領用水に挟まれたこの一帯は、かつては度々洪水に見舞われたが、その洪水から下流域を護るためにと溝ノ口村・二子村などの下流域の村々が横土手を盛りはじめ、それに久地村や上流の堰村などが反発、工事は300mほど進んだところで続行不可能な事態になり、以降中断されたまま放置されていたという。

 

その交差点にはマンションができ、小さな久地の里公園が隣接してあり、「災害用応急給水拠点」と「公園雨水流出抑制施設」がその地下に整備されていることが書かれていました。

 

水を得るための争いも霞堤をつくるための争いもなくなり、小さなその案内板のそばにはおしゃれなマンションが建ち、さらに現代の「治水」と「利水」の施設が共存して造られているようです。

 

*「久地分量樋」跡*

 

さらに百メートルほど歩いたところに、小さな石碑がありました。

二ヶ領用水「久地分量樋(くじぶんりょうひ)」跡

 久地分量樋は、多摩川から二ヶ所で取り入れられ、久地で合流した二ヶ領用水の水を、四つの幅に分け、各堀ごとの水量比率を保つための施設で、江戸時代中期に田中休愚(きゅうぐ、丘隅)によって作られました。そして昭和16(1941)年、久地円筒分水の完成により役目を終えました。

 

あちこちの分水路でよく目にする、水路の幅を変えて分水する施設があったようです。

背割り常流分水では水争いが絶えなかったものが、近代的な円筒形分水堰によって流量を調節できるようになった。

そしてそこには、水中で固まるコンクリート工法の発明があったからこその久地円筒分水だったのだと、この4年の間の散歩で理解できるようになりました。

 

この久地分量樋跡のあたりですが、二ヶ領用水のまったく流れていないかのように水面が静かで一瞬、どちらに流れているのか混乱しました。

当然、この先の久地円筒分水へと流れているはずなのですけれど。

 

しばらく歩くと、また轟々と水音がして、あの津田山を貫通する平瀬川との合流部が近づいてきました。

 

 

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