行間を読む 142  「水を多く取り入れるところに、水が引き寄せられる」

なぜか二ヶ領用水の流れがどちらに向かうのか混乱した、「久地分量樋」跡のあたりですが、その数十メートル先で少し左へと流れが曲がります。そこで津田山を貫いて流れてくる新平瀬川と合流し、そばに久地円筒分水の施設があるのですが、轟々とした水音はその合流地点へと1mほどの落差があるために聞こえてくるようです。

 

対岸に久地円筒分水の施設があり、4年前と変わらず水が溢れるように分水路へと流れ込んでいました。

 

二ヶ領用水久地円筒分水

 この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。

内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される。当時の最先端をいく装置でした。

平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財となっています。

 

その説明板に、「円筒分水が造られた当時」の写真がありました。

現在は、水路のすぐそばまでおそらく1960年代以降に開発されたと思われる住宅地になっていますが、その写真ではとところどころ雑木林がある平地が広がっているだけでした。

 

この二ヶ領用水と新平瀬川が合流する場所は、轟々と水音がするのですが、よくよく見るとほとんどの水は一旦、地下へと流れるのか、地上の水路は水がわずかです。

二ヶ領用水の段差も地上部分は1mほどですが、実際には深い場所へと水が流れているようです。

 

もう一つ説明板がありました。

 この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治(ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水された二ヶ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒部の噴出口からサイフォンの原理で流水を噴き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を吹きこぼす装置により灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。

 平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省帝室林野局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上川原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は、1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた。

 

平地を流れていた二ヶ領用水の途中を深く掘り、サイフォンの原理で円筒分水で分水することで、それまでの常流分水では「水を多く取り入れるところに、水が引き寄せられ」、また「下流の流れの影響(バックラッシュ)」が上流にも影響を及ぼす問題を解決できるということでしょうか。

 

「二ヶ領用水の流れがどちらに向いているのか混乱するほど」のなだらかな平地では水を正確に分水できにくく、水の流れに勢いをつけるための施設がこの円筒分水ということでしょうか。

 

久地円筒分水の前後の流れを実際に歩いてみることで、4年前に読んだ「武蔵野・江戸を潤した多摩川」(安富六郎氏、農文協、2015年)の内容をもう少し理解できたような気がするとともに、この円筒分水にまた圧倒されています。

 

 

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