水のあれこれ 230 平瀬川が津田山をトンネルでくぐる場所

4年ほど前に久地円筒分水を訪ねたときに、そのそばの山から川が出ていることに驚きました。

川の上に川があったり、川の下に川があるとか胴体切断マジックのような場所とか、水のそばを歩くようになって本当に驚かされる場所があります。

 

山から川が出ているとはどんな理由なのだろうと気になりつつ、そのままになっていました。

 

 

*「水害防止のための新しい平瀬川の開削」*

 

久しぶりにそのそばに行ってみると、トンネルは一つではなくて二つありました。向かって左側のトンネルに比べて、右側の方が2.5倍ぐらい大きく見えます。

ますます謎が深まります。

 

そばに「二ヶ領用水 久地分水樋」の説明板があり、その中に少しこのトンネルについても書かれています。

二ヶ領用水 久地分水樋 

 稲毛川崎二ヶ領用水は、徳川家康の命を受けて小泉次大夫が、慶長二(1597)年から東京側の六郷用水とともに工事に着手し、十四年の歳月をかけて慶長十六(1611)年に完成させた神奈川県最古で最大の農業用水です。この用水の完成により、米の収穫量は飛躍的にのびていきました。

 その後、百年余り経た頃、荒廃した二ヶ領用水を蘇らせたのは、川崎宿の名主であった田中休愚(丘愚、きゅうぐ)です。休愚は水争いをなくすために、多摩川から上河原と宿河原の二ケ所で取水し、久地で合流した二ヶ領用水の水を、決まった水量に分けるための施設として、久地分水樋を作りました。

 昭和十六(1941)年、多摩川右岸農業水利改良事務所長であった平賀栄治の設計建設により、水害防止のための新しい平瀬川の開削と二ヶ領用水の伏せ越し、そして久地円筒分水が完成しました。これに伴い、久地分量樋は、二ヶ領用水の水量調節と分量樋を洪水から守るための施設・久地大入樋(おおいりひ)と共に役目を終えました。

(以下、略)

 

説明板に「二ヶ領用水水路網が最も広く張りめぐらされた時期である江戸時代後期〜明治時代初期の姿」と「都市化が進んだ現在の姿」を対比した、「二ヶ領用水知絵図(ちえず)」がありました。

 

多摩川から取水した水ははるばる川崎を流れ、東京湾が埋め立てられる前の海岸線ギリギリのあたり、現在の川崎大師の先まで水路が造られていたようです。その辺りの「小島新田」という地名は江戸時代だったのでしょうか。

 

水が運ばれる途中の公平な水の分配とともに、洪水から二ヶ領用水を守ることもこの場所の大事な目的だったようです。

 

 

*平瀬川トンネル*

 

「山に川を通す」計画については、平瀬川の「歴史」に書かれていました。

 

「かつての自然河川は、南武線鉄橋の手前辺りから溝口市街を抜けて現在の二子坂戸緑道へ向けて流れていた」とあります。

津田山の南側で山にぶつかるように流れを北東へと変えて、溝口から高津のあたりへとところどころ蛇行した道や開渠の水路が地図に描かれていのですが、そのあたりを平瀬川は流れていたのでしょうか。

 

明治初期までの沿川では農業が盛んであり、ここ平瀬川も農業用水として利用されていたが、その農業用水として活用するため、また下流の溝口付近で洪水被害が問題になっていたことから、流路が付け替えられ、昭和15年から20年にかけて行われた県営多摩川右岸農業用水改良事業の一環として、高津区下作延から津田山(七面山)をくぐり高津区久地方面へ抜ける「平瀬川トンネル」が造られ、現在の流路へと付け替えられた。

1本目のトンネル、向かって左側の小さい方は太平洋戦争と突入していく時期につくられたようです。

 

1本目の平瀬川トンネルが造られた後、沿川の急激な都市化とそれに伴う宅地造成等により、かつて水源となっていた森林の保水力が大幅に失われ、平瀬川はトンネル入口付近で氾濫を繰り返すようになる。そのため津田山下に並行した2本目のトンネルが築造され、昭和45年に現在の姿に至っている。

 

1970年のこの辺りの風景はどんな感じだったのでしょう。

 

いよいよ、この津田山の反対側の風景を見に歩きます。

 

 

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