井原鉄道の車窓の散歩が終わり、いよいよ福山上水を目指して歩きます。
JR福塩線神辺駅に着いた時には、本降りの雨になっていました。
3月中旬ですから、雨は冷たく感じます。
JR福塩線、このままいくと2年前に三次へ向かう芸備線から見えた、倉敷に似た雰囲気の塩町が終点で、いつか乗ってみたいものです。
高屋川に沿って走ると、途中、大きな排水機場が見えました。横尾駅を過ぎると昔は島だったのだろうかと思うような小さな山を避けるように高屋川から離れて走り、高屋川と芦田川が合流するあたりから、今度は左手の山肌に沿って列車がぐんとカーブを描きながら南東へと向きを変えました。
この辺りで、おそらくそこが福山上水の取水口だろうという場所を見逃すまいと車窓を眺めていました。
雨に煙ってよく見えませんでしたが、そこから水路が列車と並走し始めました。
もし、小田川が芦田川へ流れていたのであればどんな流れになっていたのかと思いながら、雨脚が強くなる中の川面を眺めました。
*備後本庄駅から福山上水沿いに歩く*
少し歩いただけて傘をさす手がかじかむような雨でしたから、計画ではその取水口のあたりまで500mほど引き返すように歩いてみるつもりでしたが断念しました。
地図ではこの辺りから、緩やかに蛇行しながら数百メートルぐらい水路が続き、さらに福山城の手前まで貯水池のように少し幅が広がった水色の線が描かれています。
そこまでおよそ1km、晴れていたらなんということのない距離ですが、この雨の中歩ききれるか少し不安になりながら街の中心部へと歩き始めました。
静かな住宅地のそばに小高い丘が迫っている場所に、静かに水が流れていました。
ところどころ、分水堰があります。近くには小さな畑や水田も残っていて、倉敷の祖父母の家のあたりと似た白っぽい土でした。
やはり水を見ると、元気が出てきますね。
住宅の間を流れていてそばを歩くことはできない場所もありましたが、そのうちに少し広い水路になり、そばを歩くことができるようになっていました。
*戦争とばら*
水路沿いに薔薇があちこちに植えられていて、地域で大事にしていることが書かれていました。帰宅して検索してみると福山市のホームページに「ばらのまち福山の歴史」がありました。
1956年ばらの町の始まり
戦後、再建復興が進められ、街は姿を一新していましたが、市民の心はなかなか混迷を抜け出せないままでいました。
そんなとき、御門町南公園(現在のばら公園)付近の住民が、「戦災で荒廃した街に潤いを与え、人々の心に和らぎを取り戻そう」と、1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)にかけて、その公園にばらの苗木1,000本を植えました。住民が熱心に世話を続けたばらは、やがて真っ赤な花を咲かせました。
私が生まれる数年前ぐらいでもまだ「市民の心はなかなか混迷を抜けだせない」状況だったとは、黒を白に、白を黒にの時代という意味でしょうか。
戦災というのはなんと残酷でなんと虚しいものだろうと、今の時代が重なります。
*蓮池公園*
途中、水路のそばにはどこにも福山上水についての案内板のようなものもないので、本当に福山上水なのだろうかと不安になりながら水色の金網の柵越しに眺めながら歩くと、広い水路になり、その向こうに蓮池公園が見え始めました。
Macの地図には公園が表示されていなかったのですが、草木が手入れされていてベンチもあります。
雨でなければ、一休みして水面を眺められたのですけれど。
公園の片隅に大きな石碑があるので近づいてみました。
蓮池今昔記
蓮池の歴史は福山築城と広大な干拓地造成そして城下をめぐらす水源整備事業とともに始まり芦田川からの灌漑に資する貯水池調整池として飲料水の浄水池の役割をも果たし伏流水が豊富なことから幾度かの干魃にも枯渇することなく人々の生活を潤し爾来三百八十余年備後の中核都市福山市の発展の礎となった
市街化の進展した今日蓮池川水利組合の農業用水利調整の役割も変貌したことから水利番屋の土地処分を財源として福山市の全面支援を得て市民が憩う水空間施設を建設した
今ここに蓮池から眺める五層白亜の天守福山城譜代の名将に想いを馳せつつ蓮池の今昔を記す
蓮池川水利組合理事長 平田一雄
この石碑に巡り合っただけでも、今回の散歩は満足でした。
天守閣は工事中でしたが、福山城内を歩いて福山駅へと向かい、岡山行きの新幹線に乗りました。
本当は、このあと後楽園の井田の模型をみる予定でしたが、岡山は土砂降りで9度でした。
冷たい雨の中の散歩は体力、気力が必要ですね。
岡山では2回目のお店で温かいお蕎麦と親子丼そしてママカリを食べて、本屋さんを巡り、今回の散歩は終わりました。
「散歩をする」まとめはこちら。
蓮についてのまとめはこちら。