水の神様を訪ねる 58  在家の大久保神社

堤防の上は見晴らしがよく、少し離れたさいたま市民医療センターが要塞のように建っているのも見えました。その少し下流在家橋があり、そこからの右岸側は堤防ぎりぎりのところまで水田地帯が広がっていました。

 

在家橋を右に曲がると住宅地の中に鎮守の森が見えます。計画の段階で立ち寄ろうと思っていた大久保神社です。

 

大久保神社の手前に小さな川があり、鴨川へと合流していました。

ゆるやかに神社のあたりが周囲よりも高いように感じる場所です。

境内の入り口に、「宿深町 土地改良事業記念碑」という立派な石碑が建っていました。「浦和市」になっているので、2001年以前のもののようです。

 

氷川神社だった*

 

大久保神社の御由緒もありました。

□ 御縁起(歴史)

 

 宿の地名の由来は、近村の道場村に畠山重忠の館があったころ、当地もにぎわい、家が軒を連ねて宿のようであったことによるという。

 地内の字宮前にある「宿(しゅく)の城」といわれる城館跡は、安保直実(なおざね)・安保泰規(やすのり)に関係のものが居住したと推定されている。安保直実・泰規の両名は賀美(かみ)郡安保郷(現神川町元阿保一帯に比定される)を本領とする豪族・安保氏の一族で、南北朝期に当地を含む大窪郷を領していた。

 当社はもと八幡社と称し、この「宿の城」の南東に鎮座していることから、安保氏に関係する者によって武神として奉斎されたことが推測される。最も古い史料に、承応二年(一六五三)本殿建立のものと思われる棟札があり、「御本願地頭朝岡権三郎」「大寒中村枩左衛門」の名が見える。また、天明四年(一七八四)の「再建主村氏子中」「大願主星野喜惣次」とする本殿再建の棟札があり、現在の一間社流造りの本殿はこの時に造営されたものであろう。

 『風土記稿』には「八幡社 村内の鎮守なり」とある。明治六年に村社となり、同二十二年に宿村が大久保村の大字となったことから、同四十年には同村の大字植田谷領在家(うえたやりょうざいけ)の村社天神社と大字白鍬(しらくわ)の村社氷川神社を本殿に合祀し、村名を採って大久保神社と改称した。現在、白鍬の氷川神社の社殿は当社境内にあり、嘉永二年(一八四九)の棟札と社殿仕用帳、明治十三年の棟札が残されている。

 

もう少し古い「御由緒」もありました。

創立年代不詳なるが由緒は古く、新編武蔵風土記にも記載されてゐる古社である。

現本殿は棟札によると天明四年、百十九代の光格天皇の御代、徳川家第十代家治将軍時代(約二百十年前)の再建とある。

尚神社保存木ふだによると安政二年神社を中心して遠くは浅間山の大噴火翌三年には江戸城辺り迄の地震風水害が記され神社は安泰なり明治六年四月村社に列格 同四十年九月廿三日大久保村大沢植田谷領在家字稲荷の天神社 同村大字白鍬の村社氷川神社を合祀、社号を大久保神社と改称す。

明治四年九月廿七日神饌帛供進神社に指定される。

昭和廿年八月太平洋戦争終結 翌廿一年神道指令により、神社本庁所属の宗教法人大久保神社となる。

 

同じ神社の歴史でも、時代や視点が異なると違った御由緒になりますね。

 

それにしても、期せずして氷川神社にたどり着きました。

 

*在家の地理*

 

在家というと「出家」ぐらいしか思いつかなかったのですが、「中世、荘園・公領で、農民と耕地を一体のものとして賦課の対象としたもの。東国や九州に多くみられる」(weblio辞書)という意味もあるようです。

 

Wikipedia在家(さいたま市)がありました。

元は江戸期より存在した武蔵國足立郡植田谷領に属する在家村で、古くは水判土荘に属していたと云われている。村高は『武蔵田園簿』では347石余、『元禄郷帳』では290石余、『天保郷帳』では297石余。化政期の戸数は30軒で、村の規模は東西14町余、南北3町余であった。

 

「石」や「町」という昔の単位はほとんど想像がつかないのですが、古い記録が残されていることはすごいですね。

 

「地理」もありました。

さいたま市桜区北部の沖積平野(荒川低地)に位置する東西に長い炬形の堤内地を有する地区。地区の東側で白鍬に、南側で宿や五関(飛び地)に、西側で昭和に、北側で島根に接する。全域が市街地調整区域である。住宅地が東部にあるが、西部は荒川堤防まで耕地整理された田園や大久保浄水場があるのみで、宅地はない。西部から東部にかけて江川が流れ、鴨川に合流する。地区の南方の荒川の河川区域内に入会地由来の飛び地がある。地内の荒川堤防ではさいたま築堤事業によって、堤防のかさ上げ工事が実施されている。

(強調は引用者による)

 

矩形(くけい)は長方形の意味だそうですが、地図では東側が少し長細くなっています。

鴨川の右岸部分の堤防工事が行われていた箇所で、家はなく水田地帯で、少し丘陵のような地形でした。

江川が荒川の方ではなく、大久保神社の横を鴨川の方へと流れているのもこの丘陵に沿っていたということでしょうか。

 

地図で改めて確認すると西側はたしかに農地と浄水場だけで、荒川の堤防沿いの場所に水田と運動場がありそこが「昭和」のようです。このあたりも、暴れ川を制したのが昭和に入ってからで、ようやくその河川敷のそばで人が生活できるようになった、という地名でしょうか。

 

そのような荒川の河道の変遷を眺めるような場所に、大久保神社が建っているのだとつながりました。

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら