行間を読む 147  「急行50周年」と井の頭線の歴史

先日、井の頭線の車両に「急行50周年」というパネルが取り付けられているのに気づきました。なんと昨年12月、急行ができて半世紀経っていたようです。

 

半世紀の歴史なんてすごいなと思うとともに、子どもの頃に乗っていた井の頭線は各停しかなかったのかとちょっと愕然としたのでした。

短い路線なので各停と急行だと5分ぐらいの差ですが、タッチの差で乗り継ぎが間に合わないだけで10分とか20分のロスになる都内の交通機関では貴重な5分ですからね。

 

京王井の頭線の歴史を読むと、「1971年(昭和46年)12月15日:永福町駅に待避線を設置、急行運転開始。当初の最高速度は80km/h。」とあります。

 

1970年代前半に、年に2~3回、当時住んでいた所から東名と環八を通って高井戸駅から新宿駅まで利用していたことがありますが、あの時は永福町駅で急行に乗り換えて次の明大前駅まで行ったのか、それとも「急がないから各停のままで一駅行こう」だったのか、全く記憶がありません。

もう少し前、1960年代に渋谷から井の頭線に乗った記憶が、あのマークシティが2000年にできる前の古い駅舎の記憶とともにあるのですが、それは確実に各駅停車の時代の記憶のようです。

 

なんだか半世紀なんてあっという間ですね。

20年とか30年前でも大昔に感じていたのに、一世紀というのは近すぎて混沌としていると感じることが増えました。

 

 

*永福町検車区が壊滅的な被害を受けた*

 

井の頭線の歴史を読み返していたら、「1945年(昭和20年)5月25日:東京大空襲により永福町車庫が被災。29両のうち23両が消失、壊滅的な被害を受ける」とありました。

77年前のちょうど今頃のようですが、現代の風景に重なります。

 

急行待ち合わせで停車する永福町駅の歴史が、永福町車検区に書かれていました。

1933年(昭和8年)の帝都電鉄線(現・井の頭線)渋谷ー井の頭公園間の開業と同時に永福町駅構内北側に開設された。線内唯一の車両基地であるため、全車両が留置できるように多くの留置線が設けられた。また、航空機の格納庫を彷彿とさせるような車庫が建てられ、長年親しまれた。しかし1945年(昭和20年)5月25日、東京大空襲(山の手大空襲)により被災し、29両のうち実に23両が消失という壊滅的な被害を受けた。これにより井の頭線は車両不足となったため、応急的に代田連絡線が敷設され、戦後にかけて他路線との間で車両の搬出入が行われることとなる。

 

車両基地であるとともに、近くを荒玉水道、和田堀給水所そして淀橋浄水場への東京市水道が通っていたので標的になったのでしょうか。

東京大空襲についても、ほとんど知らないまま来てしまいました。

 

それにしても、「29両のうち実に23両が消失」という書き方に、ふだんWikipediaでは感情的な記述が少ない印象の中で、この記録を残してくださった方の無念さが表れているように感じました。

 

 

井の頭線の歴史から*

 

Wikipedia井の頭線の「歴史」に興味深いことが書かれていました。

同線は山手線周辺から郊外へ延びる鉄道としては、他の路線と比較してもかなり遅くに開業した路線となった。そのため、当時としては珍しく高架・堀割を中心にして建設し、車両も全鋼鉄製で自動扉を採用して女性車掌が乗務するなど、開業時はかなり近代的な路線であった。

 

高校生の頃の井の頭線の車窓の風景の記憶があまりないのですが、土手のように続く堀割が多かったからかもしれません。今ではそうした場所でも土手の草花を楽しんでいますが。切り通しの歴史を考えると、井の頭線の堀割は先駆的ですね。

 

神田川玉川上水を散歩するようになって、井の頭沿線は起伏が多いことを実感しています。

そして線路に並行した幹線道路が少なくて、半世紀以上も前の道路計画よりも住宅化が先に進み、ようやく道路建設の段階になっているのも、堀割を必要とする地形によるものでしょうか。

 

もう一つ興味深いことが、戦前から女性車掌が乗務していた路線だということでした。近代的だったからか、それとも「戦時下の交通は女子の手で確保」という雰囲気になり始めていた時代だったのでしょうか。

 

ただ、2000年代から女性車掌や女性運転士の姿を私が最初に見かけるようになったのは井の頭線で、先進的だと感じた記憶がありました。

 

「急行50周年」から、井の頭線の年表を読む機会になりました。

 

 

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