行間を読む 148  戸塚安行について

戸塚安行から草加まで歩いた記録を書き始めた時に、最初、「戸塚安行」が一発で変換できませんでした。

 

「安行」って歴史を感じさせる地名なのになぜだろうと、その地名に関心が出ていつも通りWikipediaを探してみましたが、戸塚安行駅のわずかの説明しかありませんでした。

駅名の由来

駅名は現在の地区名の戸塚(とづか)と安行を合わせて付けた。なお駅名決定までの仮称は「川口戸塚駅」だった。

 

ただ、漢字に一発で変換できない理由はわかりました。「とつか」ではなく「とづか」だったようです。日本語の読みは難しいですね。

 

 

*地名の由来*

 

川口緑化センターの「植木の里 安行」の説明がありました。

"植木の里 安行(あんぎょう)"とは?

 

 400年以上の歴史を有する安行の植木は、川口市の2大産業として、鋳物産業と共に時代の隆盛を極めていましたが、近年の住宅開発にともなう土地の高騰等で、鋳物と同様、緑化産業従事者も減少しています。しかし交通網の発達で、生産地を茨城県や千葉県などへ移しながらも植木の拠点として安行の役割は大きく、情報の交換や研修の場として利用されています。

 

緑が豊かな場所でしたが、急激に状況が変化していたようです。

 

「安行植木の祖」に歴史が書かれていました。

 安行の地名は、「新編武蔵風土記稿」によると、かつて中田安斎入道安行という人の領地であったことから名付けられた、とされています。この安行の地の植木栽培の起こりは、承応年間の頃、吉田権之丞によって始まったと言われています。

 吉田権之丞の人となりについては、文献等の資料がないので正確にははっきりしていません。権之丞は、若い時から草花や盆栽に興味を持ち、珍しい草木を集めて栽培したところ、安行の土質・風土に適合しその生育が良かったので、これらの苗木の開発にあたったと言われています。

 その頃の江戸は、経済の発展、人口の増加、明暦の大火の復興などの関係から、活動的な消費都市となっていました。加えて、新しい風流を好む元禄時代を迎え、植木の需要は増していました。権之丞は、たまたま苗木や切花を江戸に運んで商売したところ、大当たりしました。

 

承応(じょうおう)年間は、1662年から1655年だそうです。

 

 

*見沼代用水に反対した*

 

Wikipedia見沼代用水を読みなおしていたら、「建設背景」に安行を見つけました。

 

水不足に悩む村々がある一方で、見沼溜井を利用していた浦和領、安行領、舎人領などの村々は幕府の溜井干拓と水路建設に対して強い反対の立場をとった。井沢が現地調査を行うようになると、反対派の村々は以下の疑問点を挙げ、幕府に対して干拓事業撤回の訴状を提出した。

1. 利根川から水を引くのでは余りにも遠いため、溜井より下流の村にまで水が行き渡るか疑問である。

2. 川の水は雨の多いときには豊富であるが、雨の水ない時には水量が減少する。

3. 溜井の水は養分が豊富であるが、川の水は養分が少なく農作物に適さない。

 

また、見沼溜井に住む竜神の化身の美女が現れ、見沼干拓の撤回を哀願するという内容の見沼の竜神などの多くの見沼に関する伝承もこの時期に作られたといわれている。

しかし、見沼溜井の干拓は決定事項であるとされ、幕府の勘定奉行名で訴訟は却下された。このため反対していた村々は負担軽減に切り替えることを余儀なくされた。1726年(享保11年)、普請役の保田太左衛門により測量が始められた。

 

それから約400年の姿なんて想像できないことを、誰が責めることができるでしょう。

当時のそれぞれの身を引き裂かれるような葛藤と判断に現代は恩恵を受けているのだと、地名の由来から見沼代用水の歴史に繋がったのでした。

 

 

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