今回の散歩で一日目に防府を訪ねで宿泊する計画にしましたが、当初は防府が目的ではありませんでした。
山口県の「開作」「新開」といった地名を地図で追っている時に、最初に目にしたのが現在の新山口駅の南側、椹野川(ふしのがわ)河口の干拓地がまず目に入りました。
真ん中に、水路と貯水池のような施設があり、近くに「新開バス停」がありました。
ここを訪ねてみたい。
そこから次第に山口県内の沿岸部を眺めていくと、公共交通機関でなんとか行けそうな干拓地の候補がいくつか出てきました。
その時点では防府市はまだ地図で見る限り、「内陸部」に見えたのでした。
ところが、せっかく宿泊するなら市内を歩いてみようと地図を眺めているうちに、防府の広い市内の大半が干拓地のように見えてきました。
「三田尻」「新田」「伊佐江」といった地名と地形を辿ると、その南側はおそらく海だったのだろうと思えてきます。
航空自衛隊防府北基地・陸上自衛隊防府分屯地のあたりは、島と島の間の遠浅だった場所のようにも見えます。
そしてその西側の、佐波川河口には新しい干拓地のように見える水田地帯もあります。
2泊3日で訪ねるにはどこに泊まりどのようなルートにするか、いくつか計画ができました。
防府に泊まれば瀬戸内海沿岸の風景も見ることができ、干拓地もいくつか見ることができそうです。
それで決めたのでした。
*元々は塩田のための干拓地だった*
航空地図で見ると防府市の沿岸はほとんどが工場地帯のようで、防府北基地の東側にわずかに残る程度です。
干拓後の農地から宅地化が進んだ場所なのだろうかとその沿岸部を追っていくと、三田尻塩田記念産業公園がありました。赤穂の塩田と同じく、製塩のための干拓だったのでしょうか。
山口県のほぼ中央に位置し、南を瀬戸内海に面する。市の北西から瀬戸内海に向かって一級水系佐波川(さばがわ)が流れ、山口県では数少ない、河口付近に開けた平野部に都市が成り立っている。さらに沖合側はかつての塩田の跡が干拓されて平野部を形成している。
たしかに、地図で山口県の瀬戸内海沿岸を眺めていると、「数少ない、河口付近に開けた平野」として目に入ってくるのが防府市でした。
倉敷周辺の干拓地の場合は、遠浅の海を干拓したあと塩に強い綿を育てて、そしてようやく水田になったようですが、この防府の干拓地にはどんな歴史があるのでしょうか。
*「三田尻塩田の歴史」*
防府市のホームページに、「260年にわたり日本の産業を支えた三田尻塩田」の説明がありました。
瀬戸内海の干拓と入浜式塩田
防府市は、波の穏やかな瀬戸内海の沿岸にあり、近世以前の市域では揚浜(あげはま)塩田、入浜(いりはま)系の古式入浜の2つの製法で製塩が行われていました。
萩藩は瀬戸内海沿岸で干拓を行い、元禄12年(1699年)に築造された古浜をはじめ、中浜、鶴浜、大浜、江泊浜、西浦浜が「入浜式塩田」として築かれ、「三田尻六ヶ所浜」と呼ばれていた。
他の地域と同様に、戦後になって塩田が廃止されたようです。
近代の三田尻と塩田の廃止
明治38年(1905年)、塩専売法の施行に伴い、鶴浜の東南部に「三田尻塩務局」、同42年(1909年)には中浜に「専売局三田尻試験場」、大正7年(1918年)には向島に「三田尻専売支局直轄工場」が設置され、三田尻は広大な塩田とともに産業の一大拠点としての役割を果たしました。
戦後、外塩の輸入と「流下式製塩法」の進歩による内地塩の過剰生産のため昭和34年(1959年)に「塩業整備臨時措置法」が成立して防府市内の塩田全ての廃止が決まり、江戸時代から260年にわたり日本の塩業を支えた「三田尻六ヶ所浜」の輝かしい歴史に幕が降ろされました。
Wikipediaの「防府市」の年表と併せてみると、塩田の周辺には戦前から工場や陸軍飛行場などができ始めたようです。
六ヶ所浜のうち西浦浜はおそらく現在の防府北基地の西側の「西浦」で、比較的新しい干拓地かと思ったのですが、開作と塩田の歴史をもつ場所でした。
そして六ヶ所浜の中では唯一、干拓地から農地へと転換された場所でしょうか。
昭和34年ごろからどのように塩田の塩を抜いて、水田へと変えたのでしょう。
興味が尽きないのですが、なかなか歴史をたどるのは難しいですね。
「米のあれこれ」まとめはこちら。