行間を読む 149 「防府地形の変遷」より

山口県では干拓地を「開作」と呼ぶことを知り、ちょっと見てみたいくらいの気持ちで出かけたのですが、防府市内の水田の歴史をたどるだけでも簡単ではないですね。

 

防府市防府図書館の、「防府史料 第六十九集 御園生翁甫著 『防府地形の変遷』」が公開されていました。

古代から現代までの防府の地形がどのように変化したのかが書かれていて、特に近代の開作について、四十ヶ所以上の開作の歴史が書かれていて圧巻でした。

 

佐波川河口の西浦は塩田だったようですが、戦後になって新たな干拓計画として拡張されたことが書かれていました。

藩制、二百七十年間に、防府には、ざっと千五百町歩の干拓地ができた。といっても、それが、全部そんな短期間に営まれた沖積層でなくて、実際は、遠い遠い祖先以来の累積であった。それを悉く処理し尽くしたる現代に於ては、唯頼むは、大海湾に注ぐ佐波川と、横曽根川の沖積作用のみである。佐波川尻にては、既に、西浦新開作地先き海面に、百七十町歩干拓の計画をたて、今年より実施することとなっている。

 

昭和27年(1952年)に書かれたもののようですから、佐波川河口の水田地帯はその年から干拓が始まったのでしょうか。

 

*「非科学的の憶説が流伝して、先入観をなしているのに公憤を持った」*

 

さて、その「防府地形の変遷」は、それぞれの開作の歴史が記録されているというだけでも圧倒されたのですが、冒頭の「緒言」を読んで惹きつけられたのでした。

 

 防府の地貌は予が物心ついてからでも、かなりの変化があった。況んや、遠き神代の昔、我等の祖先が、居を占めてから、茫々三千年、其の変遷の甚だしかりしことも、蓋し想像に余りあるであろう。

 現代の防府は、悉く、累代先人の拮据経営になれる積極的の開発築造と修理固成の結集であらねばならぬ。予等防府に育まれ、先人の集積遺産をそっくり受け継いで大なる恵沢によくしているものとしては、出来るだけ、郷土生成の経過を明らかにし、先覚郷土開発の偉業を顕彰して、報本反始の誠を致したいと念願しているのである。

 予はかような心構えで、この書の編纂に着手したが、いざ筆を執ることとなると、文献の備わらない大内氏以前のことを各地区にわたって細論するは、到底不可能であると言った方が正直なところであろう。それにもめげず、勇を鼓して、之を公表する所以は、従来防府の地形に就いては非科学的の憶説が流伝して、先入観をなしているのに公憤を持ったことと、一方文学博士渡辺世祐氏が、明治の中葉に発表されたる他に、学者の注意を惹かなかったから、隅々防府開作地のことなど記するものあるも、実地に疎く、且つ、又土地の古老にすら、知られていない開拓地が処々にある。

かようにして、百年河清を待つような態度をとることは、学問進歩の途でないと考えたから、先ず隗より始めるという気持ちになったのである。

 

読み方や意味がわからない言葉が多いのですが、私が生まれる数年前の日本というのは、こんな難しい表現が多々使われていたのですね。

 

それにしてもこれが書かれた1952年は、市民の心はなかなか混迷を抜け出せない時代であり、黒を白に白を黒にの時代。

まるで9割がイメージで作られたかのような「現実の社会」、言い換えれば思い込みと思いつきの主張から社会が動き、それが間違っていても訂正されない世の中から目が覚めるというのは、そういう時なのかもしれませんね。

 

吉村昭氏がフィクションを書くために、人に会い、徹底した史実調査にこだわった、あるいは、もう一回細かな事実をきちんと出していく、あわてて理論とか構造を立てる必要はないという鶴見良行氏も、この時代を経験されていたからだったのかもしれない、とこの緒言の時代背景が少し見えたような気がしました。

 

ところで、この「防府地形の変遷」は、ところどころ空白のページがありました。

のちに新たにわかったことと置き換えるために非公開になったのかはわかりませんが、もしそうであれば、「科学的」に重きを置いた著者であれば本望とも言えるでしょうか。

 

 

 

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