行間を読む 151 小野田開作から小野田セメントへ

私が小学生の頃に日本が工業国入りして、あちこちに大きな工業地帯ができていることが誇りとして社会科の教科書で学んだ記憶があります。

同じ頃に公害が社会問題となり、成人した頃には環境破壊か経済成長か、自然か人工かという葛藤に社会が直面している時代でした。

 

今なら「環境を守り経済成長も、自然を守り人工的な技術も」と思えるし、むしろ大きな工業地帯とかダムや水利施設などどうしてそこにそれができたのだろう、以前はどんな地域だったのだろうという歴史に関心が出てきました。

 

*「小野田セメントと笠井家」*

 

山陽小野田市郷土資料館では小野田セメントについての常設展示があり、やはり大企業の持つ力は大きいのだと思いましたが、購入した資料「ふるさと文化遺産」の「小野田セメントと笠井家」を読むと、地元の資産家が産業を興したという私のイメージとは異なることが書かれていました。

 かつて寒村に過ぎなかった小野田、笠井家はこの地を近代産業都市に変貌させました。

 寛文8年(1668)に高泊開作が築造されて以降、有帆川河口の干拓事業は徐々に進められましたが、明治になると、そこに工場が建ち、小野田は工都としての道を歩み始めます。明治14年(1881)、日本初の民間セメント製造会社「セメント製造会社」(のちの小野田セメント(株))が設立、明治22年(1889)には国内でも早期に設立された民間化学会社「日本舎密製造会社」(のちの日産化学(株))が誘致されました。小野田は日本近代化の先駆けとなったのです。

 

私が小学生だった1960年代にはセメントはどこでも見かけましたから、セメントの歴史に思い至ることもありませんでした。

小野田新開作にできた日本初の民間セメント会社が、小野田セメントだったのですね。

 

 会社が事業を進めるにつれ、必要なインフラも整備されます。原料搬入と製品搬出のために、まずは港が整備され、現在の小野田港が造られました。また、小野田駅から小野田セメントまでを結ぶ鉄道が敷かれ、現在、小野田線の一部となっています。

 整備されたのはインフラだけではありません。従業員が住むための住宅が建てられ、周りに商店ができて街が形成されます。人が多く住むようになると、学校や病院、道路、郵便局など、都市として必要な機能が整備されました。

 野来見や木戸・刈屋、目出など一部に人が住む寒村だった小野田。明治14年(1881)の人口は3,341人だったのが、昭和15年(1940)に高千帆と合併して市制を施行する直前には3万人を超えていました。まさに一からまちをつくりあげたといえます。

 このまちの誕生に大きな役割を果たしたのが笠井家です。小野田セメントを創設し「会社と地域の発展は不可分」との信条のもと、会社とまちの発展に尽くした笠井順八、その長男で、小野田町長として長年にわたり都市基盤の整備に心血を注いだ笠井健二郎、次男で小野田セメントを日本を代表する会社に躍進させた笠井真三。明治から昭和初期までの小野田は、笠池に牽引されながら歩んできました。

 笠井家が残した遺産は、今でも市民の生活に役立っているもの、そして大切に保存されているものなど様々です。しかし、いずれもまちの大切な財産として市民に受け継がれています。

 

 

 

 

*「順八と会社の創業ー士族の救済と日本の近代化ー」*

 

続いて、小野田セメントを立ち上げた理由が書かれていました。

 明治14年(1881)、笠井順八は小野田に「セメント製造会社」(のちの小野田セメント(株))を設立しました。順八が会社を立ち上げた理由は2つあります。まずは、明治維新後の秩禄処分によって生活の糧を失った士族を救済するためです。これまでの家禄にかわり士族に発行された金録公債による出資や、政府の士族授産金の貸与により資金を調達しました。また士族を従業員として雇います。そして、もう一つは日本の近代化にセメントが必要であると感じたためです。当時セメントを調達していたのは官営深川工場だけで、多くを輸入に依存する状態にあったことから、順八は「外国の泥土(セメント)を以って金貨に交換するは実に国の為に慨嘆するのみ」と考え、セメント製造を決意します。

 順八は工場建設地に小野田新開作を選びました。明治4年(1871)に干拓されたばかりで広大な荒地があったこと、セメントの原料である泥土と石灰石、燃料となる石炭が周辺に豊富に存在していたからです。

 「笠井さんは人夫か社長か、ごみにまみれて共稼ぎ」と謳われるほど、順八は骨身を惜しまず働いたと言います。明治16年(1883)には中心設備である堅窯(徳利窯)4基が完成、セメント製造に成功して事業の一部を踏み出しました。

 

江戸末期から明治維新のあたりは「黒船に驚いた日本人」のイメージにとらわれていたのですが、次々と驚異的な変化を生み出し、受け入れる時代であったことに改めて驚きます。

 

「外国の泥土」の重要性に先見の明があっただけでなく、「士族に発行された金録公債による出資」「士族授産金により資金調達」というあたりも、どんな時代の雰囲気だったのでしょう。

「経済」という言葉も概念も、まだまだ浸透していない時代だったのではないかと想像するのですけれど。

 

 

たしかに「笠井家」という地元の名士が産業を興した話ではあるのですが、どこかに「人類」の為にという考え方が広がった時代を感じ、そしてクラボウヒストリーに重なりました。

 

 

 

 

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