記録のあれこれ 122 あの土はどこから来たのか

祖父母の水田から岡山の干拓の歴史へと興味が出て、「吉備の穴海」から奈良時代に小規模の干拓が始まり、現代の児島湾干拓地まで広がった歴史を知ることとなりました。

少しずつ資料館やネットで得られる資料を読み、その土木技術や干拓地を中心に歴史が築かれてきたことに圧倒されていくうちに、ずっとずっと気になっているのが「あの土はどこから来たのか」ということでした。

 

埋め立てるのに使った土は、どこから来たのか。

干拓事業の詳しい資料はあっても、なかなか答えを見つけることがありませんでした。いえ、素人が検索しているので見落としたり、読み飛ばしていることも多々あると思います。

 

今回、山陽小野田市郷土資料館で購入した「ふるさと文化遺産」の「高泊開作」の「田をつくる」で、はじめて「土がどこから来たのか」が書かれている文章を目にしました。

 海を干拓して田を造るためには、土が必要でした。有帆杵築には「土取」という地名が残っており、一説によると、そこから土を取って運んだのではないかと言われています。

 

 

地図で確認すると、有帆川を渡る山陽本線の鉄橋から数百メートルほど上流に「杵築」という地名がありました。

その近くのバス停をクリックしたら、なんと「土取」バス停がありました。

さらにそこから数百メートル上流側に山陽自動車道が通っていますが、「ふるさと文化遺産」によれば、開作以前はその辺りまでが海だったようです。

 

ということは昔は有帆川の河口がその辺りで、河口付近の土地から土を取って干拓に利用したのでしょうか。

あくまでも、「と言われています」という内容なのですが。

 

 

日本中の干拓地の土はどこから来たのだろう。

1400年も昔に人海戦術で土をどこからか運ぶなんて非現実的だと思っていたのですが、琵琶湖からの瀬田川の氾濫にたいして大日山(だいにちやま)を切り取ろうという考えが奈良時代にあったことを知ると、山を削って平地をつくったり切り通しで道を作る時に出た土が運ばれている可能性もあったのでしょうか。

 

農地を得るために、あるいは人が安全に住むために平地にして、その土をどこかへと移動させる。

案外と記録に残されていないのかもしれませんね。

 

 

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