「岩木川の支流の一覧」を読みながら、今回の散歩で通過したり歩いた地域の風景を思い返していますが、あんなに広大な津軽平野のほとんどが江戸時代から水を排水させてできてきた地域であり、しかも現在のような姿になってわずか半世紀であることが見えてきました。
計画の段階で見つけた「農業土木を支えてきた人々 西津軽の土地改良と伊藤藤吉氏」(黒川忠文氏著、農業土木学会誌 第59巻第8号、1991年8月)を読み返しました。
廻堰大溜池と土淵堰(どえんぜき)や、岩木川左岸の十三湖あたりまでの地域の歴史が書かれたものです。
*岩木川の治水事業*
津軽藩になってから土淵堰開削、十三湖水戸口開削、溜池築造、岩木川堤防築造、山田川開削などにより水田開発が行われてきたものの、明治時代は指導者不足もあり停滞していたことが書かれています。
1. 治水事業
津軽平野を育む岩木川も洪水時には夜叉のように地域住民に襲いかかる。内務省により岩木川改修工事が着手されたのは大正7年であり、地域の排水幹線山田川の改修が県土木部により着手されたのは大正15年である。藩政時代度々開作された十三湖水戸口は、漂砂による閉塞を防止するため水深の深いところまで導流堤が築かれ、昔のような閉塞は無くなった、山田川は流路途中に田光沼という遊水池があり流末に十三湖があり、岩木川と合流して水戸口から日本海に排水するという洪水解析の難解な河川である。昭和10年に大水害に遭遇し岩木川流域は甚大な被害を受けた。
社会的ニーズとしてより高度な改修が望まれ、岩木川末流部十三湖岸の囲繞堤築造と、岩木川本線洪水量のカットの必要があった。洪水量カットは建設省の目屋(多目的)ダム築造事業として、昭和28年から35年に施工された。支流山田川の洪水量カットは、岩木川水系の高水流量配分のバランスかつ、国営西津軽かんぱい事業1期の排水改良工事業の一環として特別に実施あれ、新小戸六(シンコドロク)アースダムが築造された。
「囲繞」は「いじょう」と読むのですね。水の歴史を辿ると、知らない漢字に出逢います。
「夜叉のように住民におそいかかる」、どんな状況なのでしょう。水害が激減した時代に生まれた私には想像ができない表現です。
治水事業ののち、十三湖干拓事業、西津軽かんぱい第1期事業と続くようですが、そのさなかに江戸時代からの取水の歴史も変化させるような大洪水が昭和33年に起きたようです。
昭和33年の岩木川の大洪水により、土淵堰取水工を含む12ヶ堰が流出決壊したので"禍を転じて福となし"として、杭止堰は単独、下流11ヶ堰は岩木川統合頭首工として県営で改良復旧した。文政13年(1800)の取水施設に関する掟は160年を経て死文化することになった。
続いて西津軽かんぱい第2期事業、県営大規模圃場整備、屏風山農地開発事業など土地改良区の整備が行われた経緯がまとめられていました。
*伊藤藤吉氏について*
昭和22年に木造町長になった伊藤藤吉氏について、「まえがき」と「むすび」で紹介されています。
昭和20年に第2次世界大戦が終戦となり、故郷に帰った伊藤氏は昭和22年に木造町長に当選すると共に、土淵堰・悪水路両普通水利組合の管理者となった。名ばかりの管理者であってはならないと、自分で地域内を歩き廻って地域の実情を把握し、治水と土地改良事業の必要性を痛感し、以来死に至るまでの20余年間、持ち前の進取の気性と人望であらゆる機会に地域住民を啓発し、事業の促進に東奔西走すると共に旧態依然な管理体制の整備に当たった。
(まえがきより)
Ⅳ むすび
時の推移に伴って、物事に対する考え方や経済構造等の変化も大きいが、①藩政時代、②地主と小作農の時代、③農地改革後、の3つに大別して考えてみよう。
近代的国家になり、土地改良事業も民主化された現在は、①、②の時代とは当然に相異する。しかし③の時代には昔と違った困難さを持っている。③の時代に属する伊藤藤吉氏は、"経済的な農業を営み、過酷な労働から農民を解放すること"を信条とされ、土地改良事業のために地方の政治に携わり、その生涯を捧げた人であった。
ほんとうに、農業に従事するという意味も驚異的に変化する時代でした。
この資料は、個人の偉人伝というよりは、その竹の節のような時代を伝えているように感じました。
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