黒石駅から再び弘南鉄道に乗り、終点の弘前駅の一つ手前の弘前東高前駅で下車しました。
二日目は盛りだくさんの計画で、ここから地図で見つけた富田の清水まで歩きます。交通量の多いまっすぐな道を、暑さと疲れでちょっとくらくらしながら歩きました。弘前総合医療センターの前から住宅地へと入ってしばらく歩くと、何か古い小さな建物がありました。
近づくと、「御膳水」とあり、四角い井戸が二つ並んでいます。
御膳水(ごぜんすい)
貞享三年(一六八六)十二月、津軽藩四代藩主信政公より、「紙漉座(かみすきざ)」新設の命を受けた頭取の熊谷吉兵衛が、良質の紙をつくるには、大量の良水が必要という見地に立って、「御膳水」を含む「富田の清水(しっこ)群」の一部に「紙漉座」を設けた。現在の紙漉町郵便局のあたりといわれている。そこから「紙漉町」の町名も生まれた。(弘前市史藩政編に據る)
明治十四年(一八八一)九月、明治天皇が二度目の東北地方巡幸の折、弘前市本町の金木屋を御座所となされた。その際、お茶や食事の用水として、当所の水を使用されたという。
また、藩政時代より稲荷神社の「御手洗」(みたらし)としても使用され、広く地域住民の生活用水としても、多大の恩恵を与えて今日に至っているのである。
昭和六十一年(一九八六)三月には、青森県選定の「私たちの名水」の一つに選ばれている。
近くに「100m先 弘前紙漉町郵便局」の案内がありました。
地図には載っていなかった「水」に出会えました。
そこから少し歩くと、道が蛇行し、その角に「富田の清水」がありました。
同じように、木で建てられた小屋があり、石段を五段ほど降りた低い場所に水が流れています。
中に入るとこちらは「井戸」というよりは石の水路でその流れがが区切られていて、そばに説明と注意書きがありました。
「富田の清水」について
「富田の清水」の周辺は、古くから清水の豊富な所として知られ、中津津軽郡富田村に所在したことからこう呼ばれてきました。
貞享三年(一六八六年)、津軽藩四代藩主信政公が越前の熊谷吉兵衛を招き、紙漉き法を導入した際にこの豊かな清水が紙漉に使われました。
この清水の水源は東方向約六十メートルにあり、昭和の初めの頃までは紙漉に利用されましたが、その後は生活用水として使用され第一槽第二槽は飲用、第三槽は米、青物の洗い、洗顔用、第四槽は紙漉の材料や漬物樽をつける、第五槽第六槽は洗濯用、足洗い用の決まりがありました。
昭和六十年、身近で清涼な水として古くから地域住民の生活に融け込み良好に管理されてきたことから、環境庁の名水百選に選ばれました。
平成七年七月、それまで所有者として管理にあたって来た紙漉町清水共有会から市に寄贈されました。
使用上の注意
一、給水口からの水以外は飲用しないでください
一、いったん汲んだ水は、一番目二番目の水槽に戻さないでください
一、営業用には使用しないでください
一、持ち帰る場合は、早めに使用するか煮沸して飲用してください
一、みんなの清水(しっこ)ですから大切に使ってください
一本の流れが上水道から下水道の機能を担っていたのも、長い人類の歴史で言えばつい最近までですね。
地図でこの場所を見つけた時は、弘前城の東側を流れる土淵川の河岸段丘の下に沸いているのかと想像していました。
実際に歩いてみると紙漉町は高台で、この清水はそこに湧き出る泉のようだったのでしょうか。
子どもの頃に過ごした地域で、家のそばの草むらからもこんこんと泉が湧き上がる場所がありました。
平な場所から水が湧き上がる。
あの風景を見たことが、今、こうして全国の水を訪ね歩きたくなる動機の一つなのだと思い出しました。
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