水のあれこれ 256 馬場目川と八郎潟

2016年ごろから都内近郊の川や公園を訪ね歩くようになり、2018年秋に祖父母の水田の歴史を訪ねたことがきっかけで、2019年からは全国へとその範囲が広がりました。

 

八郎潟を訪ねたのはその初期の頃で、まだ一泊二日で車窓から見て帰ってくるといった感じでした。

その記録をブログに残してはいたのですが、あの頃は今のように一つの散歩から1〜2ヶ月も書き続けることもなく、1週間ぐらいで書き終わっていました。

 

今回ふたたび馬場目川を特急つがるで通過し、2019年に川沿いを歩いた情景が思い出されました。

あの時は八郎潟干拓地に入る前にせっかくだから八郎潟への流入河川のそばを歩こう、街の雰囲気はどんな感じなのか見てみようと30分ほど歩いただけですが、今だったらそこから2~3日分の記事になりそうです。

 

印象に残ったのが、住宅には必ず大きな石油のタンクがあることでした。

5月の初夏の草花が美しい路地を歩き、馬場目川のそばを歩いて線路沿いに地域のコミュニティセンターや老人施設のそばを通って駅に戻りました。

 

*馬場目川と江戸時代の新田開発*

 

3年前にもWikipedia馬場目川(ばばめがわ)を読んだのではないかと思うのですが、今回改めて読み直してみると、八郎潟駅を過ぎたあたりから沿線の両側に水田地帯が広がっていた理由が書かれていることに気づきました。

 

近世に入ってから秋田藩の新田開発政策により、藩士の戸村義国(十太夫)が、1605年~1607年(慶長10-12年)までに水源を馬場目川の中流に求めて旧河沿いに開削し、用水路(戸村堰)をつくった。この用水路によって1648年(慶安元年)までに開田が行われた。また、1617年(元和3年)には真崎長右衛が、馬場目川中流に水源を求めて、馬場目川の左岸地帯を西方に向かって用水路(真崎堰)を開削、翌年完成し、1622年(元和8年)に開田を完了した。戸村堰の受益田地は500ha、真崎堰の受益田地は1000haにも及んでいる。川の上流地は見事な森林地帯で、馬場目川は運材の重要河川であった。また、流域では孔雀石を産する。

 

 

小学生の頃、日本の干拓の歴史も全く知らずに、八郎潟が日本で初めての干拓地だという壮大な勘違いはどこから来たのでしょう。

そして大規模な干拓が行われた八郎潟周辺は、「何もない場所」ぐらいに思い込んでいたのでした。地図をみると八郎潟周囲のあちこちに「新田」とつく地名があるようです。

 

 

江戸時代からの新田開発の痕跡を探して、もう一度この「八郎潟を擁することが水系の大きな特徴である」という馬場目川沿いを歩いてみたいものです。

 

知れば知るほど知らないことに気づく深みにはまっていくのですが、それもまた楽しいものですね。

 

*おまけ*

 

Wikipediaに古代の馬場目川についての記載があるのですが、「八郎潟町夜叉袋集落」に目が止まりました。

「夜叉」、最近、「津軽平野を育む岩木川も洪水時には夜叉のように地域住民に襲いかかる」で目にしました。

地名に夜叉が使われているのは、そこに洪水を記録しているのでしょうか。

 

 

 

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