行間を読む 160 りんごの年表

りんご大学の「学ぶ」に「りんごの歴史」として明治時代から平成までの年表がありました。

 

1871年明治4年)に「開拓次官 黒田清隆アメリカから苗木を購入し、東京の青山官園に75種のりんごを植えたのが、りんご栽培の始まりとされている」から始まっています。

1875年(明治8年) 内務省勧業寮から青森県庁に苗木が3本配布され、県庁構内に植えられる。明治13年に結実。

青森りんごの始まり。

この3本の苗木から少しずつあちこちにりんごの栽培が広がっていったのでしょうか。板柳の遊歩道で見た歴史と重なりました。

初めて実がなるまで5年、どんな思いでそれを待っていたのでしょうか。

 

1891年(明治24年) 鉄道による東京へのりんごの出荷が始まる。

津軽平野の鉄道の歴史につながりました。

私が子どもの頃はまだ、りんごは木箱に籾殻が敷き詰められて輸送されていたことが思い出されました。

 

 

1894年(明治27年) 北海道から清国へ、りんご113欣(約68kg)を輸出。

明治30~38年頃まで病害虫による第一次生産危機。

 

1910年(明治43年) 生産量130万個に。りんご大量作(前年の3倍)で価格が暴落。

明治43~大正6年頃まで病害虫による第二次生産危機。2000ヘクタールが廃園に。

 

破竹の勢いで生産量が増えて海外に輸出するようになったのも束の間、豊作での価格暴落や病害虫と、当時りんご栽培に従事していた方々の生活はどんな感じだったのでしょう。

 

 

*二つの年表を見比べる*

 

検索していたら青森県庁のホームページにも「青森りんごの歴史」という年表があり、平成時代についてはこんなまとめが書かれていました。

 平成に入ってからは、同3年に最大瞬間風速53.9m/sを記録する台風19号が来襲し、約38万トン、金額741億円の史上希にみる被害を受けたことに始まり、平成5年からはニュージーランドアメリカ、フランス、オーストラリアと毎年のように生果実の輸入が解禁されました。

 また、平成13、14年には、出荷量の過剰や内部褐変などにより、価格が暴落したことから、県内をあげて量より質を重視した「売れるりんご」づくりへの転換を目指すことになりました。

 

生産者も、そしてその調整をされる自治体にとっても「安定」とは本当に難しいことですね。自然災害だけでなく、時代も社会も変化しそれにも合わせていかなければならないので。

「消費して応援する」のも、何か違うのかもしれません。

 

 

ところで、この青森県庁と生産者団体関連の「りんご大学」の年表を読み比べると、書かれているポイントが異なることもわかりました。

 

たとえば、りんご台風の前年の1990年(平成2年)について、青森県庁では「元年産りんごの販売額が1,093億円と初めて1,000億円の大台を突破」と書かれていますが、「りんご大学」は以下のように書かれています。

りんご果汁の輸入が自由化される。

国際競争と輸入の圧力により、国内産果汁は厳しい局面に立たされることに。

 

 

1993年(平成5年)について、青森県庁では「6月、これまで植物防疫上の理由により輸入が禁止されていたニュージーランド産りんごの輸入が解禁される」「12月、県産りんごがニュージーランドに初輸出」とあり、それに対して「りんご大学」は以下の通りです。

6月、ニュージーランド産りんごの輸入が解禁される。

病害虫の侵入等を理由(防除は全て生産者の負担)に生産者からの強い反対があったが、完全駆除できるということで輸入解禁となった。

 

赤字は全て原文のままです。

どちらの年表にもその年に起きたことが黒字で書かれていますが、「県産りんごがニュージーランドへ初輸出された」については県庁側のみの記載です。

「りんご大学」年表の場合には生産者の葛藤が赤字で追加されている印象で、そのどちらの年表も事実であって、立場によって重要なことも違うというあたりでしょうか。

 

 

そういえば、青森のコンビニで購入したむきりんごはたしか青森産でしたが、先日近所で同じものを購入したらニュージーランド産でした。

1年中、りんごが食べられるようになったのも1980~90年代の農産物輸入自由化の大きなうねりによるもので、これもまた一世紀半前には想像もしない世の中といえそうです。

 

野菜や果物の端境期を調整する企業側だったら、どんな年表になることでしょうか。

あるいは端境期の作物を育てる地域の方々だったら、どんな年表でしょう。

 

 

 

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