運動のあれこれ 45 米沢の治水の歴史

散歩の記録をまとめるときに検索することで、また世界が広がります。

大幅な計画変更で訪ねることができなかった米坂線の南側にある水色の矢印のような場所が掘立(ほったて)川の遊水池であることを知りました。

 

 掘立川遊水池の会〜みんなで守ろう遊水池〜は、米沢市南部にある掘立川遊水池を対象に自然観察や自然環境の保全を行う会です。

 掘立川は、400年前に米沢が上杉領となった時に直江兼続によりお堀の一部として利用するために改修された歴史もある小河川ですが洪水で氾濫したこともあることから、氾濫防止の遊水池として掘削され一段と低くなった平坦地が掘立川遊水池です。

 掘削後、湿地特有の動植物が繁殖し、貴重な自然環境ができあがり、一時はスポーツ公園構想もありましたが取りやめになり、この豊かな自然環境を環境学習などに利用するため遊水池の案内人養成講座が実施され、講座の講師や受講生を中心に遊水池の会ができました。

 初代の会長は、石栗正人さん(米沢生物愛好会会長)で、現在は星野義勝さんです。

 

その会のサイトの「遊水池の沿革」に、遊水池がまだ計画の段階だった1997年にその初代会長さんが書かれた「掘立川遊水池奇譚」がありました。

 400余年前、直江山城守が松川の上流から城下へ、水を引き入れたといわれる掘立川上流は笹野の地に、大きな遊水地が造成されようとしている。造られる理由といえば、50年に一度といわれる羽越水害時のような、集中豪雨で氾濫した水が、米沢市街に押し寄せないようにするためである。

 現場を見ると、やや低くした堤防が設けられており、溢れた水が大きな池に溜まり、洪水を防ぐ仕組みである。天災は何時やってくるか分からない。百年の大計として喜ぶべき施設かと思われる。

 

ところが、前氷河期の地層がみつかったのにスポーツ公園計画がありその保存が難しい話になった時期だったようです。その葛藤が綴られた文章でした。

その後、遊水池保存に至った詳細は分からないのですが、地図で見つけた場所にはそういう活動があったことがわかりました。

 

 

*直江石堤と蛇堤*

 

計画の段階でもう一つ行ってみたい場所がありました。最上川をたどると米沢の市街地から数キロ上流に、「直江石堤」「南原石垣町」「南原横堀町」という地名があります。

「米沢藩の治水事業」で目にした地名で、どのあたりだろうと気になったままになっていました。

 

ただ、今回も時間的にも訪ねるのは無理でした。

 

検索すると、山形県観光文化スポーツ部文化財活用課の「未来に伝える山形の宝」というサイトに、「直江石堤と米沢市芳泉町の生垣・町並み景観」を見つけました。

啓蒙 芳泉町の石垣・生垣の造成は、約400年前、直江兼続公の時代に遡ります。川除堤防(蛇堤)とともに、直江石堤決壊時に、米沢城下が大洪水になるのを防ぐ役割を果たしてきました。芳泉町自体が主要な川除堤防であり、直江石堤と川除堤防(蛇堤)の現地治水管制基地でした。

 芳泉町の石垣・生垣及び川除堤防(蛇堤)は町民が一丸となり身をもって洪水から米沢城下を守る任務を遂行した先人の歴史と強い精神を物語る遺産と言えます。

 

「芳泉町全体が主要な川除堤防であり」「総延長10kmにも及ぶ石積みの堤防を築きました。」

 

50年に一度とか100年に一度の水害の歴史を正確に伝えることで、街を守ることになる。

なんだかかなわないなあと思いながら読みました。

 

 

「運動のあれこれ」まとめはこちら

「城と水」のまとめはこちら

失敗とかリスクについての記事のまとめはこちら