地図で福島潟を見つけたのがいつ頃だったのかもう記憶にありません。
それほど昔ではなく、ここ数年だと思います。大きな水色の湖みたいな場所が新潟にあることに気づいて地図を拡大したら「福島潟」で、なぜ新潟なのに「福島潟」なのだろう、湖とも違うのかという素朴な疑問と、そばに新潟水俣病資料館があるのを見つけていつか行こうと計画ノートにメモしたのでした。
ブログを書き始めてから小学生の頃の公害を思い返すことが増え、当時はまだ公害の時代の渦中で、現代史としての公害病の総論さえなかったのは仕方がないのですが、きちんと自分の中の年表を整理しないとという思いが強くなりました。
2019年に関屋分水と分水を訪ねた頃から新潟の地図を穴が開くほど眺めているうちに、信濃川だけでなく阿賀野川も見てみたいと磐越西線に乗りました。この磐越西線も先日の大雨で喜多方市の橋梁が崩落して不通になっている区間があるようです。
地図では福島潟と阿賀野川は離れて見えるのですが、よくよく見ると阿賀野川との間に水色の線が多数あり、本当に新潟の川の流れかたは複雑です。
2020年に羽越本線月岡駅から福島潟を目指す計画を立てたのですが、熊出没のニュースで取りやめました。
ただ、今回豊栄駅から福島潟まで歩いた感じでは、月岡駅から歩くのは無謀な計画だったかもしれません。
*福島潟とは*
「水の公園福島潟」というサイトに「福島潟の歴史」が以下のように書かれています。
福島潟は、その昔形成された新潟砂丘により阿賀野川などの河川の流れがさえぎられ、さらに砂丘列の内陸側に徐々に土砂が堆積しできあがった湖です。江戸時代に阿賀野川を日本海へ直接流す切り落とし工事から福島潟の干拓の歴史が始まりました。昭和40年代に行われた国営福島潟干拓建設事業により193haの大きさになり、現在は河川改修事業(湖岸堤などの整備)により干拓地が一部潟に戻り、潟面積は262haになりました。
1947年の航空写真を見ると、現在よりは北から西側へ内沼潟や黒山潟が広がっていて「黒ずんで見える範囲が干拓される前の福島潟の姿」と書かれています。
それにしても「江戸時代に阿賀野川を日本海へ直接流す切り落とし工事」とは、誰がどのように進めていったのでしょう。
興味が尽きないですね。
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