米のあれこれ 40 福島江用水の開削

少しだけ歩いた福島江用水ですが、17世紀半ばに水不足に苦しむ農民が安心して米作りできるよう桑原久右衛門によってひらかれた歴史をもう少し知りたくなりました。

 

検索すると「福島江開削に学ぶ」(長岡郷土史研究会顧問 今井雄介氏)の講演録が公開されていました。

新潟日報の「水利が拓く実りの明日へ」というサイトの、2016年に「水路の歴史と新潟農業の今」という上越中越下越について3回の連続講座での記録のようです。

 

*取水堰の造られた地形*

 

福島江用水の取水堰がある場所は、上流からの信濃川の流れが右岸の山にぶつかる場所で、水を得やすそうだという印象でしたが、この講演録を読むと違う背景がありました。

江戸時代初期の地図を見ると真ん中に少し斜めになっていますが信濃川が流れています。この信濃川の右上の方に苗を植えた田んぼがあります。その一番下のところの細長い部分が信濃川の洪水による自然堤防です。妙見から直接的に自然堤防が作られて耕作が進められていましたが、自然堤防東側と東丘陵間は自然堤防によって閉鎖されて信濃川の水が一切流れなくなってしまいました。

 

残念ながらあと少しというところで妙見まで訪ねられなかったのですが、昔は自然堤防に挟まれて信濃川の水を得にくい地域だったようです。

以降、開削の計画から実現まで、そして新たな問題と解決について書かれているこの講演録を自分の覚書のために引用しておこうと思います。

 

必要な用水は、浄土川、太田川、柿川、栖吉川、成願寺川がありますが、上流にも田んぼや集落があり、下流で田を耕すための水は不十分。その下流の八丁潟の近くに福島潟の庄屋・桑原久右衛門の集落がありました。その地域では上流で水が使われるため、雨の少ない年は干害が起こります。そこで「なんとかしなければ」と動き出したのが桑原久右衛門です。地図に八丁潟があります。上流地域は扇状地信濃川の傾斜が強く、砂利を運ぶような勢いの強い水で、堤防を破るような洪水をしょっちゅう起こしていました。そして八丁潟は、ほとんど傾斜がないため水の動きが悪く、雨が降ると水が溜まってしまう排水不良の地でした。

 治水の関係から考えていくと、堤防の上流地域は洪水の被害はあるけれど、水は不足しないので農業が盛んに行われています。ところが下流では水不足で生活が苦しい。そこで先ほどの福島村の庄屋・桑原久右衛門です。この人は、自分たちの生活を豊かにするために3年間かけて地域を渡り歩き、地勢を確認しました。既に用水が通る取水口できている、扇状地最南端の妙見から始めたらいいと計画を立てました。用水は直線に作れば一番、お金もかからず、価値の高いものになりますが、途中で田んぼを作っている人たちがいます。できるだけ用水をまっすぐ作るために、田んぼを作る人たちを説得するために多くの苦労があったと思います。彼がやり始めた仕事というのは、単なる土地の様子や地質調査だけではなく、用水利用者の意見や争いの起きた場所での実態を知ることを重視していました。

それだけの知恵のある人だったことを頭においてください。

 それから高山村の庄屋・穂刈茂左衛門もなんとか水路の改善を考えていました。桑原久右衛門は、「島江」「中江」「大茂江」の通称三ケ江と呼ばれる取水江を統括していた穂苅茂左衛門とも話し合いをして、しっかりしたものを作るという合意をしながら仕事を進めました。自分の利権だけではなくお互いに良いものを作ろうとしていました。妙見から信濃川の水を取水、十日町・宮内を経て、長岡の東側を栖吉川に合流させ、下々条を抜けて十二潟で猿橋川に流すという延長20キロメートルの計画を立て、1647(正保4)年、「開削の意見書」を長岡藩に提出しました。

 その結果、初代の藩主がすぐに許可してくれました。農水の足りない地域の関係のある村々の人に話をして協力を仰ぎ、同意を得たことも大きかったようです。村人も用水を作ってほしいという思いが強かったのでしょう。計画は水の流れる水路を4間、両側に川を守るために必要な土地を4間ずつ、合計12間の幅の土地を確保するものでした。上組と下組(北組)の村人を説得し、久右衛門は自ら工事の監督をやりました。既成の川と用水が交差する場所、4か所は掛樋(かけとい)を掛け渡して通水しました。今の用水は川の下を潜り抜けてくるという形ですが、当時は掛樋を作って水を流していました。

 実際に開削工事を始めていく中で問題がいくつか起きます。上流(上組)の一部農民には恩恵少なしと潰れ地(用水路や道路などを作るために田畑の一部がつぶされる土地のこと)にすることに反対し、紛争を起こすこともありました。また、反対者のいるところでは夜間こっそりと測量をすることもありました。傾斜を調べるために、長さ5尺の諸殻(おがら)を田面(たずら)に立て、その上にローソクを灯し、高さを測量したこともありました。長岡城の本丸近くでは、藩の意向で一般の人夫を雇わず、足軽茶坊主藩士が土方仕事をさせられたため、久右衛門は恨まれ、迫害を加える者もありました。そのため、夜更けになってから番人と見回りをすることも再三ありました。迫害が自分の家にまで及ぶようになった時、やむを得ず小作で東山も佐野新田に住む佐藤六蔵の家に数か月間、身を隠し、時折見回りに出かけたともいわれています。ときには死人を運ぶ駕籠「死堂駕篭(しどうかご)」に乗って見回ったこともありました。これなら誰も咎める人はいませんね。

 そんなことをやりながらも用水路は実現の方向に向かっていきまして、1651(慶安4)年、3年間で20キロメートルの用水江掘削を完了します。桑原久右衛門は、報奨を一切受け取りませんでした。農民の喜びを己の喜びとする。それがこの人の考え方なんです。そして、こんな歌を作りました。「かさねたる 思ひのしるしに あらわれて 青田の面に 見ゆる月影」。水のない田んぼが多かったので田んぼに月影が映ることがなかったんですね。この時、月が水に移る様子を見るだけでも彼にとっては心が休まることだったのでしょう。桑原久右衛門は1654(承応3)年に79歳でなくなりました。

 

 完成後、問題になってきたのが取水口です。信濃川から水を取るわけですが、信濃川の水は砂を大量に含んでいるので岸辺に砂が溜まり、取水口を塞いでしまいます。そうなると場所を変えて取水口を新しく設けなければなりません。妙見のところからずっと水を引いてきたのが困難になってきたので地勢や水勢を調査して、下流の三俵野(さんぴょうの)に移設し、藩の許可を得て、取り付け水路を掘り下げ、既成水路に接続しました。小さな村・三俵野に取水口を設けたことで、下流の村の耕地にも水が行き渡り、水不足の心配は解消されました。また、水を見守る番人をつけました。開削当初から長岡藩にとって重要な用水路であることから水路の管理には直接指示を出していました。北組では北組御蔵に専用の高山年番を置き、村々への人夫割当などの指示を行っていました。問題が起きないように対策を講じ、和をもって支えあう態勢ができていました。藩の理解があったからできたことでしょう。1687(貞享4)年には、草生津村の大庄屋・山田伝兵衛が人足一万人を動員して、白岳(妙高村)の崖下の岩をくり抜き、江幅を広げて取水口を改修しました。それから1813(文化10)年に「江浚(えさら)いの減少」というのがありました。福島江であっても、川の水が流れることで川底に砂や石が溜まります。そうすると水を流す量が少なくなりますから、用水の土を浚うのです。山田伝兵衛の子孫・庄八は三俵野村の大江口を締め切って水道を伏せ、通水の弁を図りました。昭八は江浚いの普請に動員する人足農地1万人を減らした功績「江浚いの減少」によって、藩から割元上座(各組に5人いる割元が全部城に集められたときに上のほうに置かれる)に任じられ、扶持米を支給されました。

 福島江完成後の米の収穫高、実際は田んぼの面積ですが資料には石高で書いてあります。開削後の1651(慶安4)年、上組の取れ高は2300余石、下(北組)7200余石、合わせて9500石になりました。1767(明和4)年には上組6501石、北組が1万3452こくで合計2万153石。福島江が完成したおかげで恩恵を受けた村々の数は上組26か村、北組21かむら、合計47か村です。そして福島江というのは、これだけで終わっていないのです。福島江ができるまで途中で水が必要なところがあれば何本も小さな用水を引いています。そして1767(明和4)年、新組の地域の桑原久右衛門の福島村を含む福島が2830石、中村が269石、弥次右衛門新田121石、大黒新田40石と、全体で北組の24%にあたります。今までにない大きな成果を福島江が作り出しました。これによって7万4千石の石高であった長岡藩が14万石という約倍の収穫高になったのです。その後、桑原久右衛門没後250年にあたる1903(明治36)年に福島江の開削記念碑が建立されました。現在は福島江土地界力敷地内に移設されています。

 終わりに、福島江は明治以降さらに国の管轄となり、近代化・現代化されました。まず、掛樋はサイホンで交差しました。それから水路の変更。街づくりに関わって駅の東側に桜並木があります。以前は曲がっていたのですが直線になりました。それまで別々の用水路だった福島江の取水口とその上流から取水していた東大新江の取水口を一緒にする工事をしたことで、栃尾からの刈矢田川(*刈谷田川か)の調整もうまくいくようになりました。その結果、見附市、三条地域への福島江の拡大用水地になっています。江戸時代の範囲よりももっと広く、福島江が利用されているということで、福島江の存在意義の高まりを感じます。

 

地図では「八丁潟」という地名は見つからないのですが、JR押切駅の南数百メートルのところに「福島江土地改良区八丁潟排水機場」があり、さらにその南1kmほどのところに福島町がありました。

こんなに山間部に近い場所なのに、ここも潟だったようです。

 

一本の用水路とそこに広がる水田にもそれぞれの歴史があり、その記録をこうして読むことができると風景が全く違って見えてきますね。

 

 

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