行間を読む 163 「地図にない湖」

ここ3年ほど新潟はなぜ「新潟」なのだろうという素朴な疑問の答えを探しているのですが、なかなか見つかりません。

頼みの綱のWikipediaの「新潟県」には「県章は「新」の字を崩した物を中央に置いて、その周りを「ガタ」を丸く図案化したもので囲んだもの」という説明がありますが、いつ頃できた言葉なのかは書かれていませんでした。

 

今回の遠出で検索していく中で、遺構もない「幻の」とも言える新潟城の説明に、こんな記述を見つけました。

「ニイガタ」の地名は永禄年間の史料に見られ、この当時すでに町があったことが窺える。

永禄年間とは1558~1570年だそうです。

 

県名の由来ひとつとっても、掘り起こすのは大変ですね。

 

 

*「地図にない湖」*

 

「水土の礎」の「”新潟”であるために」に、想像ができないような話が書かれていました。

 

「第一章 地図にない湖と"どぶね農業"」

 

戦前の話から始めたい。

上越線に乗って新潟へ来ると、新潟へ着く直前に巨大な湖が現れる。

しかし、どう探しても地図には載っていない。

あれほど大きな湖なのに・・・。

多くの人が不思議に思ったという。

 

湖の大きさは東西11キロ、南北10キロ、約1万ヘクタール。

東京23区の約4区分に匹敵する広さである。

現在のJR新潟駅や周辺の繁華街まで含む亀田郷一帯が、その"地図にない湖”であった。

 

なぜ地図に湖と記載されていなかったのか?

 

人には湖と見えたその一帯は、新潟県民のなけなしの"農地”だったからである。

 

 

最初、鳥屋野潟の話かと思って読み始めました。

亀田郷を地図で確認すると、信越本線亀田駅のあたりのようです。

現在の阿賀野川信濃川に挟まれたちょうど真ん中あたりですが、地図を拡大するとその信越本線の両側に長細く街が続き、まるで出島のように現在の新潟駅のあたりへと続いています。

その周辺は現在も広々と水田地帯が続いています。

 

なぜ「湖」のように見えたか。

「泥のような深田」だったことが書かれていました。

 

さて、以上は、つい近年までとはいえ、過去のことである。戦前戦後を通した近代的な農業土木の成果により、新潟平野は全国でもトップの美田地帯に生まれ変わった。

どぶね農業も姿を消し、水路は道路となり、三年に一度の大洪水からも解放された。"地図にない湖"と呼ばれた亀田郷一帯も住宅地と化し、むしろ昔の面影を探す方が難しくなった。新潟市は北陸一の大都市として繁栄を誇っている。

しかし、新潟が"新しい潟[かた]"であることに変わりはない。私たちは、"潟"であることの持つ意味と、それゆえに近い将来必ず起きるであろう(他の平野にはない)課題を知っておく必要があるのではなかろうか。

そのことを明らかにするために、今一度、もっと古い時代の新潟に話を戻すことになる。

 

30年前に訪ねた新潟市周辺は、1982年に開通した上越新幹線と1990年に開通した磐越自動車道沿線が水田地帯と都市部の間を通っていて、当時の地方都市の典型的な発展の姿に見えました。

ところがその30~40年ほど前は一面の湖のような場所で、その驚異的な変化を可能にしたのが、あの信濃川水系を網羅した制御装置による排水だったようです。

 

「近い将来必ず起こるであろう課題」は9章に書かれていて、地盤沈下や海水面の上昇とともに、この排水機場の老朽化もあげられていました。

最も古い排水機場は1953年の新川右岸排水機場で、それ以降1970年代に造られたものが多いようです。

 

風景にも地図にもない「潟」が、今でも新潟の大地の基底部ということでしょうか。

 

 

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