米のあれこれ 41 西国東海岸の干拓

今回は残念ながら訪ねることができなかったのですが、豊前長州駅か宇佐駅からバスで豊後高田市内へ行き、そこから国営西国東(くにさき)干拓地の東端のあたりまで行く計画がありました。

 

地図を眺めると、日豊線の線路を境にして海側に「新田」とつく地名があちこちにあり、用水路や溜池など訪ねてみたいと思うような場所や地形があちこちにあります。

その中でも大きな干拓地が、戦後造られた西国東干拓地のようです。

航空写真で見ると水田か畑かわからなかったのですが、検索していくうちに水田ではなく畑作が主であることがわかりました。

この地域の干拓についての資料はあまり見つけられなかったのですが、コトバンクの「大分(県)」(日本大百科全書)にねぎ、スイカ、じゃがいもが生産されていることが書かれていました。

 

九州農政局のサイトにこの地域の「干拓の歴史」がありました。

 本地区の位置する豊後高田市の海岸は遠浅となっており、昔から干拓適地として知られていました。

 本地区の干拓事業の始まりは、全国的に飢饉が生じ、その対策として新田開発が推奨された江戸時代まで遡ります。

 

「2.干拓地の今昔」に江戸時代について書かれています。

 江戸中期、広瀬久兵衛は日田の代官塩谷大四郎(しおのやだいしろう)に仕え、当時の九州各地で新田開発等の事業を行いました。

 豊後高田市の呉崎新田(広さ360ha、堤防の長さ5.4km)は、文政9年(1826年)、塩谷大四郎の命により久兵衛が工事を引き受け、3年半かかり完成しました。 

リンクされている「農業水利偉人伝 広瀬久兵衛」を読むと、現在のJR豊前善光寺の沿岸から国営西国東干拓地の内側の呉崎新田までの「新田」を、この広瀬久兵衛氏が関わっているようです。

桂川・田笛川・寄藻川の3本の川が合流する河口付近の左岸側に「久兵衛新田」とあるのは、広瀬久兵衛氏が自費で造った干拓地だそうです。

 

 

エチオピアで大飢饉が起きている時期に、ソマリアでのわずかの滞在期間でも空腹感でさもしくなりそうだったので、飢餓感というのは想像できているつもりでも理解にはほど遠いですね。

そういえば「さもしい」も、最近はあまり耳にしなくなった言葉でしょうか。

 

干拓の歴史には、飢饉とか飢餓の歴史が重なるのかもしれません。

 

 

*国営西国東干拓地*

 

その九州農政局の干拓の歴史に、国営西国東干拓事業の背景が書かれていました。

 国営西国東干拓事業は、戦後の食糧不足の改善や失業救済等を目的として創設された緊急干拓事業の一環として、昭和21年に運輸省(現国土交通省)の委託事業として着手されました。

 その後、昭和27年に農林省(現農林水産省)が事業を引き継ぎ、昭和44年に事業が完了しました。

 

ちょうど、中海干拓地と同じ時代ですね。

その後、1968年から本格的に工事が始まるものの、1971年から減反政策が本格的に着手され1984年に水田造成から畑地造成へと計画の変更を余儀なくされた。

Wikipedia「中海」「干拓・淡水化事業」より)

中海干拓地ではネギが栽培されていました。

 

「緊急干拓事業」から水田か畑かの時代へと急激に変化していた時代だったと言えるのでしょうか。

当時の雰囲気を、祖父にもっと話を聞いておけばよかったと後悔することしきりです。

 

 

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