米のあれこれ 42 「水稲が初めて収穫された」

高田地区の輪中の石積みの住宅地からバス通りに出ると、「開田記念碑」と大きな石碑があり最初に以下のように書かれていました。

 

我が高田地区は大野川の三角州に位して古来洪水地として知られた水田皆無の畑作地帯であった。

堤防から少し歩いただけで水田があちこちにあり水路がはりめぐらされていましたが、かつては「水田皆無の畑作地帯」だったことは意外でした。

 

然るに昭和の初め大野川に水源を求める県営井路開発(はつは旧字体)事業が企画されて我が高田村(村長長岡準平)も加盟し後昭和井路耕地整理組合(三町八か村に及ぶ地域)が組織されるに当たって全村加入して開田の日を待った。

その続きは私には読めない旧字体も多いのですが、どうやら昭和33年(1958年)にずっと待ち望んでいた水稲を初めて収穫できたという記録で、昭和42年に建てられた石碑でした。

 

川の氾濫の影響を受けやすい地域は、水田が遊水池や洪水調整池の役割を持つようなイメージがありました。

水田を作ることができない地域もあったとは。

 

あの道の真ん中に流れていた水路も私が生まれる少し前に造られて、初めての水稲に村中が喜んだ歴史があったのでしょうか。

 

 

*「大分市高田の「輪中」集落群」より*

 

「おおいた遺産」というサイトに、高田地区の輪中の歴史がまとめられていました。

 

随所に水害対策

 

 大分県最大の河川である大野川は、河口部にデルタを形成するきっかけとして乙津川を分流させた。本流と分流はいったん1.5kmほど離れるが、3キロ余り下って再び近づき、両川の間は100メートルほどにまで狭まる。ここに350ヘクタールもの大きな中州が生まれた。これが高田地区である。眺め下ろすと楽器の形に似て、琵琶の州とも呼ぶ。

 古くから高田地区に住みついた人々は大野川とともに暮らしてきた。「母なる川」は多くの恩恵を与えてくれたが、その反面、度重なる洪水で人々を痛めつけてきた。そのため住民は江戸時代以降、中州を堤防で囲んだ。高田輪中集落の誕生である。

 輪中は独特の水防対策を工夫した。家屋敷は石垣を積んで高くした土地に構える。1階は壁を設けず開放的で、鉄砲水への抵抗を軽減させて家の流失を防ぎ、2階への階段は幅を広く取って避難の便を図る。土蔵は母屋より一段高く築いた石垣を基盤とし、非常食や生活必需品をおさめ、小舟まで用意した。さらに周辺には生け垣のほか、大木を植えて水流を制御し、時にはそれに登って水を避けた。

 

 江戸初期の領主・加藤清正の溢流堤に始まり、輪中は次第に強固になったものの、水害は昭和初期までに60回を数えたという。1929(昭和4)年に行政は計画高水量を毎秒5000立方メートルとしたが、1943年と45年には8000立方メートルを超す洪水に見舞われる。これによって堤防の強化や分流堤の建設が進み、現在では危険はかなり去った。

 だが、それによって川に対する住民の意識も次第に変化し、宅地化で新しい人も増えた。今では2000世帯以上。かつては川と共生し、住民は水防共同体を構成して連帯意識を重視してきたが、それが次第に薄れているともささやかれる。輪中文化も変貌しているのか。

 

 

乙津川の「歴史」によると、治水対策として「1962年に大野川の洪水を乙津川に分流する乙津川分流堰が完成」とあります。

また、大分河川国道事務所の「みんなで作る大野川」というサイトには、もう少しさかのぼった昭和初期からの堤防改修についての図もありました。

 

水稲が初めて収穫された」

この地域の歴史からみたら長い治水との闘いの時期を経て、ごく最近実現した稲作という感じでしょうか。

 

 

 

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