米のあれこれ 43 八代の干拓地

岡山県の児島湾干拓地のことは小学生の頃から知っていましたが、そこよりも内陸部にあった祖父母の水田が江戸時代の干拓によるものらしいと「ブラタモリ」で知ったのが2017年でした。

以来、地図で沿岸部を眺めては干拓地を探すようになりました。

 

それまでは「人工的な海岸部」を見ると、戦後の高度成長期の埋め立てだと思い込んでしました。

まさか日本地図の海岸線が、1400年以上前からの干拓によって沖へと広げられてできたものだとは考えてもいませんでした。

 

八代の沿岸部もまっすぐな海岸線で、いかにもコンクリートで護岸しましたという線に見えます。「干拓地」という言葉にハマってからも、戦後の干拓地に違いないと思うような海岸線です。

 

検索していると、熊本県の「やつしろ干拓の歴史〜わが田は緑なり〜」を見つけました。

 干拓とは水面を堤防で囲って排水し、海底の肥沃な土地を農地として利用することです。八代地域は球磨川や氷川の豊な水に恵まれ、広大な三角州が広がり、干拓に適したところでした。八代平野の3分の2は江戸時代から行われてきた干拓によって生まれた土地で、全国屈指の干拓地として知られています。

 今では、ほ場整備や用排水路の整備が進み、全国でも有数の高生産性の農業地帯となり、米作、い草栽培、施設園芸等が営まれています。特にい草・トマトの生産高は全国一位です。

 わたしたちに豊さをもたらしている干拓と豊な水の恵みに感謝し、先人たちの苦難の姿や干拓に対する思いを受け継いでいくことが大切です。

熊本県八代地域振興局

 

「加藤時代(1600~1631年)」「細川時代(1632~1868年)」「明治時代(1868~1912年)」「大正時代(1912~1926年)」「昭和時代(1926~1989年)」と年代別に色分けされた詳細な干拓地の地図が載っていました。

実は今回実際に訪ねるまでは大雑把にしか把握していなかったのですが、帰宅して改めて記憶の中の風景とこの地図を擦り合わせてみると、「八代平野の3分の2は江戸時代から行われてきた干拓による」ことの凄さに圧倒されています。

 

間違えて宮原経由のバスに乗って山側を走る路線に乗ることになったのですが、その国道3号線鹿児島本線のあたりまでが陸地で、九州新幹線が通っているところは江戸時代の干拓地のようです。

そして海側は昭和に入ってからの埋め立てかと思ったら、そのほとんどが明治・大正期の干拓でした。

 

佐賀のクリークと同じように、少しずつ干潟を陸地へと変えていったのですね。

 

 

*「くまもとの干拓の歴史」より*

 

熊本県観光サイト「もっと、もーっと!くまもっと。」の「ふるさと寺子屋」にも「くまもとの干拓の歴史」がありました。

 

くまもとは、清正時代から干拓によって豊な陸地がつくられてきました。全国的にも干拓が盛んなところで、水田総面積の約30%に相当するほどです。その中でも、明治30年代の八代・郡築新地の干拓は大工事として挙げられます。大勢の人達のご苦労の中に、さまざまな文化や風習も誕生しました。人夫頭のだいばどんとお菊の恋物語干拓民謡を生んだ石組み堤防樋門の「おざや樋門」。現在その干拓には、一面イ草が植え付けられ日本一のイ草産地として名高いところです。

 

干拓の地 八代平野

八代沿岸地域は、その3分の2ぐらいは干拓新地です。この地域は日本三代急流の一つでもある球磨川と氷川、砂川などの小河川が不知火海に注ぐところ、その砂流によって肥沃な三角州が形成され、地形的、自然的に干拓適地が発達しています。

 

バスの車窓から見えた氷川や砂川そして球磨川が運んできた砂であの有明海の造陸現象と同じように干潟が作られてきたということでしょうか。

 

それにしても海へ海へと陸地を広げさせ、腰まで水に浸かるような場所でも栽培し、沼地を排水させて水田をつくり、「どんな苦労をしても水田を広げ、1本でも多くの稲を植えたい」とヒトに熱情を与える不思議な植物ですね。

 

なんの不自由もなくお米を食べられる時代、夢のまた夢のような時代に生まれたのだと改めて思いました。

 

 

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら