大牟田では1469年に「燃える石」が発見されたという一文に、子どもの頃から当たり前に使っていた「石炭」という言葉はいつ頃からひろまったのだろうと不思議な感覚に陥りました。
さすがWikipediaですね。日本では、一般的に石炭(せきたん)と呼ばれるようになったのは、明治初年に西欧の採炭技術が入って、特にドイツ語Steinkohleを和訳したものとされるとすぐに見つかりました。
明治5年には新橋ー横浜間で石炭による蒸気機関車が走るようになり、1960年代終わりごろに通った小学校では石炭ストーブが使われていたのですが、そのあたりから石油やガスへと驚異的に変化する時代でした。
当時は小学生でも炭鉱での事故や労働の大変さはニュースや本で知る機会がたくさんありましたが、久しぶりに三池炭鉱の歴史を読むと愕然としました。
1963年11月9日 三川鉱炭じん爆発事故で458人死亡、一酸化炭素中毒患者839人。
私が幼児の頃で、まだまだ日本の家庭は冬は寒くお湯を沸かすのも部屋を温めるのも大変な時代で、工業化によってゆたかで便利になることを心待ちにするような社会だったでしょうか。
それがかなって私が意気揚々と海外へと出かけていた頃、「1984年1月18日 有明鉱坑内火災事故により83人死亡、一酸化炭素中毒患者16人」とありましたが、大きな事故なのに記憶にないのです。
日常の生活からは姿を消しましたが、電気も工業もまだまだ石炭の恩恵を受けていたはずの時代なのに社会から存在感が薄れていく時代だったのかもしれません。
*どうやったら「自分には手も足も出ない問題」であると認識できるのか*
石炭の回想と、今日のタイトル、意味が分からないですね。
先日、海外で油絵に食べ物をかけて化石燃料に反対する「活動家」というニュースがありました。
リアリティを感じない「活動家」の出現のこの風潮はなんだろう。
若気の至りではすまないほど、過激な行動や発言に向かうのはなぜなのだろう。
たぶん社会の中のちっぽけな自分が、自分の存在感を見出す満足感を得らえるあたりかもしれませんね。
どの時代にも繰り返されてきたと自分を振り返って赤面するのですが、40年ほど前はまた伝える手段が手で刷った印刷物ぐらいしかなかったのに、現代では一瞬で世界中に知れ渡るので、注目されることに中毒のようになってしまうのでしょうか。
まだ10代の「活動家」が、自身の安全で便利で快適な生活が長い歴史の中で多くの犠牲や苦労のもとで築かれたかが身に沁みる年代になった時、どうやって広げてしまった運動の責任を取れるでしょうか。
「知識としては知っていても手も足も出ないことがある」というのはやはり失敗しないと気づかないのかもしれませんが、もう少しこの失敗がうまく伝わるといいのですけれど。
若い世代のこれからの大事な時間のためにも。
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