散歩をする 379 埼玉用水と葛西用水路取水口跡へ

東谷分水工から目的の葛西親水公園までは、葛西用水路に沿ってあと2.5kmぐらいでしょうか。

柵があっても水路の上端近くまで滔々とながれている水路は、足がすくみそうな迫力があります。

ずーっと遊歩道が整備されていて、疲れれば用水路の水面を眺めるようにベンチもありました。

 

葛西用水路

 

 この用水路は、徳川幕府が力を注いだ新田開発に必要な用水を利根川から取水するため万治三年(一六六〇年)関東郡代伊奈備前守忠克によって開かれたもので、羽生市から東京都葛飾区に及ぶ水田約一万ヘクタールのかんがいが行われていた。用水路の特色は、中下流において自然の河川を堰止めて造られた「溜井(ためい)」と組み合わせて、水の有効利用を図るように工夫されていることである。

 その後、幾度かの改修を重ね、昭和四十三年には取水口が利根大堰に統合され、埼玉用水路を通しての取水がなされている。現在は、埼玉県の東部地域の水田約七千ヘクタールのかんがいに使用されており、取水量は最大毎秒二十五トンで、利根川の代表的な用水路である。

  昭和五十五年三月      埼玉県

 

小学校や周囲の住宅地、子育て地蔵や神社、そしてあちこちに分水のための小さな水門があります。利根川に近づくにつれてしだいに水田や畑も増えてきました。

こういう道は歩いても疲れないものですね。

 

少し北東へと用水路が曲がったあたりから、大きな水音が聞こえ始めました。

西の方から埼玉用水が合流している場所でした。

葛西用水路は道を隔てた利根川の堤防のそばの葛西親水公園に続いていて、そこに煉瓦造りの旧取水口がありました。

 

元圦り(もといり)の設置と葛西用水の起源

 

 江戸時代初期、利根川の流れを変える工事により、埼玉東部は水害が減りましたが、その代わり、水源の川の水量も減り、農業用水が足りなくなりました。

そこで万治(まんじ)三(一六六〇)年、当地に元圦りが設置され、利根川の水を取り入れた幸手(さって)用水が開かれました。これが葛西用水の起源となりました。

*後に幸手用水とつながる瓦曽根溜井(かわらそねためい)の成立(慶長十九(一六一四))を起源とする説もあります。

 

葛西用水の開通/名前の由来

 

 葛西用水は、葛西(今の東京都葛飾区・江戸川区)にいたる下の領(後の村にあたる)に、農業用水や生活用水を供給するために造られたものです。それで「葛西」の名がついたわけです。

幸手領用水終点の琵琶溜井から葛西にいたる古利根川に流す水量が増やされ、葛西用水が開通したのは享保四(一七一九)年のこと。十か領十三万石余りの水田をかんがいする、関東一の大用水の誕生でした。

 

「元圦り」という用語も初めて知りました。

あちこちにある説明板を読むたびに、また知らないことが増えていきますね。

 

2018年に利根大堰を訪ねた時に埼玉用水を知りましたが、どの地域に水を送っているのかまでは頭に入りませんでした。

実際に葛西用水へと流れ込む場所を見て初めて理解できました。ただその埼玉用水はまだまだその先の利根川堤防沿いに弧を描くように続いて、右岸地域の水田を潤しているようです。

 

利根川の堤防に上ると、ゆったりと流れる利根川と広々とした平野が広がっています。

 

江戸時代からの利根川からの取水の歴史に圧倒されながらコミュニティバス羽生駅へと戻る途中に、麦秋で黄色い畑と田植え直後の水田が見え、真っ赤な立葵が咲いていました。

 

電車に乗り換えて途中電車内に吹き込むほどの雷雨が突然始まり、そしてあっという間にまた晴れ間になりました。

関東平野は広いですね。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

利根大堰と見沼代用水・武蔵水路葛西用水路の記事のまとめはこちら