記録のあれこれ 132 「東山道武蔵路跡」

8月下旬に奈良を訪ねて以降はほとんど遠出もしない9月でしたが、いつの時代の東海道かをかきながら、古代の「東海道」について知る機会が9月にあったことを思い出しました。

 

9月下旬に、久しぶりに国分寺崖線の湧水をみたいと思いました。

いつもとは違う道を歩いてみようと地図を眺めていると、西国分寺駅のそばにある「東山道武蔵路跡」が目に入りました。以前も気になっていたのですが、そのままになっていた場所です。

 

中央線西国分寺駅は小高い場所を掘って通した切り通しになっていて、駅はその高いところにあります。かつてそこに大事な道があったのでしょうか。

立ち寄ってみることにしました。

残暑厳しい日で、日傘を差しながら久しぶりの散歩でちょっと疲労感もあり、当日のメモは取らず写真のみ残っていました。

 

*史跡東山道武蔵路

 

西国分寺駅の南側にJR中央線を見下ろすようにバスのロータリーがあり、その近くに屋根がついた史跡がありました。

中をのぞくと、凸凹の道の一部が展示されています。かつてここを通っていた東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)の断面のレプリカだという説明がありました。

路面の中央部にある洗濯板状に接近しながら連なっている不整形な凹凸の窪み。ここでは傾斜面に対して窪みに土砂を突き固めて道路を強化した痕跡と思われます。他の道路遺跡では、路面を舗装・強化した際の丸太棒の圧痕、修羅(しゅら)を牽引する際の枕木やコロの圧痕とも考えられています。

 

道路幅は10~12mで、さらに真ん中の凸凹がありながらも踏み固められた部分は本当に狭いものでした。

今のしっかりした靴を履いても、この道を歩くのは難儀そうです。

 

そのレプリカのそばの説明板に古代道路網の地図が書かれていて、相模国からまっすぐ足利の方へと北へ向かう道が東山道武蔵路のようです。

その地図に、相模国から下総国府、常磐国府を通って東北の方へと続く道に「東海道」と書かれていたので、ここも東海道と呼ばれていたのかと驚いたのでした。

 

 

*「古代官道 東山道武蔵路」*

 

少し南がわへと歩くと、東京都立公文書館の前に「古代官道 東山道武蔵路とは」の説明板がありました。

 大化改新(645年)後、日本は政治の仕組みを整えるため唐の制度を積極的に取り入れ、天皇の居所に都(藤原宮・平城宮等)を造営し、律(刑法)や令(行政法)に基づく都周辺には「畿内」、その他の地域には東海・東山・北陸・南海・山陽・山陰・西海道の「七道」を設定し、五畿七道と呼ばれる地方行政区分を施行しました。七道は地方の領域を示すとともに、都から各地の国府へ向かう幹線道路(官道)の名称でもありました。

 古代の官道は、目的地までを最短距離で結ぶために、極力直線を志向して経路が設定されていることが特徴です。また、約16km毎に駅家(うまや)を置き、都の役人が往来するために駅家が配備されていました。これを駅制と呼んでいます。平安時代に編纂(へんさん)された『延喜式(えんぎしき)』には当時の駅路が記載されていますが、そこから古代の道路網を復元すること、その総延長は約6,300kmにも及んでいたことが明らかとなっています。

 現在の東京都・埼玉県、神奈川県の一部を包括する武蔵国は、当初、七道のうちの東山道諸国に含まれていました東山道は、都から東へ山伝いに続く道で、近江・美濃・信濃国から碓氷(うすい)峠を越えて上野国に入り、下野国を経て陸奥出羽国へと通じています。このうち、武蔵国は上野・下野国を通る東山道の本道から南へ大きく外れた位置にあるため、上野国新田駅付近から5つの駅家を経て武蔵国府に南下する枝道が存在したことが、奈良時代に編纂された『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されています。現在、この道を「東山道武蔵路」と呼んでいます。その後、宝亀2(771)年に、武蔵国は都との往来が東山道では不便であるという理由で、相模国を経由する東海道諸国に配属替えされました。これにより、東山道武蔵路は公的な駅路としての役割を終えることになりますが、その後も武蔵国内の主要な南北交通路として機能していたことが様々な資料からうかがえます。

 

 

以前だったらこういう歴史の説明も目が滑って頭に入ってこなかったのですが、ここ数年あちこちを歩いたことと繋がって、少し理解できるようになりました。

 

ちょうど3週間前に一泊二日で奈良から北陸を回りましたが、昔の人はこの踏み固められた道を歩いて都と往復していたのですね。

 

そして道の跡を突き止めて正確に記録に残していく。

すごいことをされ続けている多くの人がいらっしゃるものです。

 

 

 

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