水喰土公園を出てすぐのJR青梅線の踏切を渡り、五丁橋通りから山王橋通りへそして清水坂通りから郵便局の前を南西へと曲がると、鍋ケ谷戸公園の前を通って福生第二小学校を目指しました。どこに「清水坂」や「谷戸」があるのだろうというぐらい平らな場所です。
上空を米軍の飛行機が時折通過して行きました。
小学校から50mほどで幹線道路に出て、その向こうに熊川神社の鎮守の森らしい場所が見えます。
もう少しだと思ったら、この都道29号線は交通量が多くしかもずっと横断歩道がありません。
よくよく見ると地下の横断歩道がありました。
安全ではあるけれど、もう少し年を取ったら道を渡るのも大変だなあと思いながら降りて昇って反対側へと出ました。
神社の境内の外側に水路がありました。熊川分水です。地図では神社から水色の線が始まっていましたが、実際にはもう少し北側から開渠部分が始まっているようで、10月でも水量がある水路です。
水音に癒されながら、水路ぞいに神社の参道まで歩くと、少し字が薄くなった熊川分水の地図と周辺の歴史が書かれた大きな案内板がありました。
ここから蛇行しながら、拝島と多摩川の対岸を結ぶ都道7号線を越えて福生南公園まで流れているようです。
地図では南公園のところに「拝島段丘」と書かれていました。
2017年に崖のような場所にある石川酒造に立ち寄ったこととつながりました。
多摩川の河川敷に沿って崖があり、その間を水路が通っていたのですが、あれが熊川分水だったようです。
福生観光協会のサイトに「熊川分水の起こり」が書かれています。
熊川分水は、高台で井戸が少なく、水が乏しい熊川地区の人たちにとっては最大の水源であった。現在はあまり水も流れず、ところどころ畑の石垣が崩れていたり、見捨てられようとしてる分水ではあるが、先人たちの苦しみを忘れてはならない。熊川に分水を敷設したいという思いは、水の乏しい熊川村全住民の願いではなかったか。ではなぜ水の乏しい熊川村に玉川上水からの分水ができなかったのか、それは鍋ケ谷戸、内出の各集落に四ヶ所の井戸があったからか(通称地頭井戸、これは鍋ケ谷戸、内出を知行していた旗本長塩、田沢両氏が水の少ない村人のために掘ったと言われている。)資料の皆無の現在では推定するしかないが、ちなみに隣村の砂川村は明暦三年(一六七五)拝島村は元文五年(一八六六)にいずれも呑水用として設けられていた。
「熊川村分水願書之写」と言う資料があります。これは当時の東京府知事に提出した願書の写しです。この願書の冒頭に「熊川村は、玉川附の高台で井戸を掘るにも容易ではなく従って飲水にも乏しく、玉川本流から引くにしても地形上不能であり、玉川上水は村の中央を流れているが水汲場を作るにしても民家は南の端にあり、その距離は遠く離れそれに加えて年々干魃多く水不足甚だしく人民の生活に困難いたし大きな影響を及ぼし、又玉川の本流も日照りのため減衰して田用水の欠乏も生じている。先年(明治八年六月)五ヶ村合併(熊川村・福生村・羽村・五ノ神村・川崎村)し、多摩村と称え、その合併事業として玉川附の開墾地への玉川分水の儀、この分水の内を熊川村に分配してくれればと村民たちが話合った。ところがこの開墾地は羽村・川崎地内に作るものであるから、結局分離二ヶ村では開墾地の堤防の保護は困難である。そこでこの堤防の保護のため助力するから、そのかわりにこの分水の水を熊川村に分配することが決まった」
(以下、略)
明治20年(1887)に分水路の工事が本格的に始まったそうですが、一世紀半前は多摩川のそばでも高台では水不足、干魃で苦しい生活だったようです。
この「熊川分水の起こり」に、もう一つ興味深い話がありました。
石川弥八郎が酒造米の精白を目的とした水車を稼働させるために、明治六年ごろから玉川上水の分水を目論見、十七年の歳月をかけ完成し、工事の終了と共にこの分水は村のものとなり、「熊川村引取玉川上水分水規定書」が作られた。全二十一ヶ条からなり、分水創設委員に石川弥八郎外十四名、人民総代石川長五郎外二十六名の連署があり、明治二十三年一月に出来た。この「分水規定書」からいくつかをひろってみると、第四条「六ヶ所の水落ヲ置キ水車場ト定ム」とあるが現在のところ実際に稼働していた水車は、盛田製糸場、熊川神社鳥居前、石川酒造の三カ所である。残りの三カ所は水車を稼働させる権利のみを所有していたものと思われる。この第四条は電気とて未だなく製糸、精米等の動力源として水車を設けたことは実に科学的な分水の利用法として先覚者の努力を高く評価したい。
以前歩いた時の風景がまた一層、水の歴史を知ることで鮮明になってきました。
それにしてもこのあたりの水車まで動かす水量を保っていたのですから、玉川上水は人喰い川と呼ばれていたことに納得ですね。
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