散歩をする 397 和歌川河口と和歌浦を歩く

紀の川沿いに和歌山に入ると、日の光が明るく感じました。

1990年代半ばの3月に初めて和歌山を訪ねたのは徳島港からフェリーでしたがあの時にも、そして2019年2月に紀伊半島をぐるりと列車で回った時にも感じた明るさです。

 

最初に訪ねた時には和歌山港から和歌山駅に向かい、列車の待ち時間を利用して街の中を少し歩いてうどんと柿の葉寿司を食べた記憶があります。この頃にもすでに柿の葉寿司が好きだったのですね。どのあたりのお店だったのかは地図をみても全く思い出せません。2019年の遠出は、和歌山は通過しただけでした。

 

ぜひ今回は和歌山市内を歩いてみたいと地図を眺めていた時に、紀の川左岸に並行して流れる川が、和歌山城のすぐ東でぐいと向きを変えそのまま南の和歌浦へと流れているのを見つけました。

「和歌川」と「和歌浦」。和歌山の名前の由来なのだろうかと、訪ねてみたくなりました。

 

和歌山城の東で、和歌川は北へそして西へと分岐した水色の線が描かれています。特にその北側の流れは紀の川から分水されたものだろうか、それとも和歌川から紀の川への放水路だろうか、水はどちらの方向に流れているのか地図だけではわかりません。それをこの目で確かめたいと思いました。

なんともこだわりの散歩ですね。

 

*和歌川河口と和歌浦へ*

 

お昼ご飯の時間がなさそうなので和歌山の柿の葉寿司を探しましたが、見つかりません。残念ですがおにぎりを携行食にしました。

13時55分和歌山駅からきのくに線に乗り、水田や工場地帯を通って14時1分に紀三井寺(きみいでら)駅で下車しました。

 

川のそばに和歌山県立医科大学病院の大きな建物があります。そこから和歌川沿いに和歌山城方面へ向かうバスがあるのでそれに乗るつもりでしたが、少し時間があるのでもう一つ先のバス停まで歩くことにしました。

河口にかかる橋から見る和歌川は想像以上に広くゆったりと水量が多い流れでした。美しい空の青さと川の青さに、また日の光が明るいことを感じました。

 

のんびり歩いていたところ、タッチの差でバスが行ってしまいました。

計画変更です。和歌川沿いを走る路線はあきらめて、途中から別の道を通って和歌山城へ向かうバスが30分後にあります。

ぶらりと和歌浦(わかのうら)を歩くことにしました。

国道42号線から、暗渠の細い路地を抜けると目の前に和歌浦が広がり、その先には長細い砂州が瀬戸内海を隔てるように伸びているのが見えました。手前には観海閣という小島が橋で繋がっていました。

 

 

*「大和の都では見ることのない海」*

 

玉津島神社のあたりは平日ですが、参拝や観光客がちらほらと歩いています。

海の香りと陽光と、穏やかな時間です。

 

和歌の説明板がありました。

玉津島 見れども飽かず いかにして

      包み持ち行かむ 見ぬ人のため

  (作者未詳 巻七 一二二二)

玉津島のこの美しい景色はいくら見ても見飽きることがないよ。

だからこの景色をなんとかして包んで都に持ち帰りたいものだ。

まだ見ていない人(都で待つ家人)に見せてやりたいから。

 

 この歌は神亀元年(七二四)十月に行われた聖武天皇紀伊国(玉津島)行幸の折に、お供をした藤原卿が詠んだ歌と考えられます。歌碑には「作者未詳」とありますが、その後の研究によって「藤原卿」の作であることが判明しました。

 藤原卿は藤原不比等鎌足の子)の四人の子供のうちの一人、おそらく藤原麻呂のことでしょう。

 

 藤原卿の目の前に広がるのは、周囲を山に囲まれた大和都では見ることのない海。

そして沖合に向かってまるで玉の緒のように連なり伸びる美しい小島。南方には干潮時に姿を現し細く伸びる砂州(現在の片男波海岸)。満々たるエネルギーを秘めて穏やかにリズミカルに寄せては返す波の音。見上げれば、青い空。ゆっくりと旋回する鶴の群れ。東方にはどっしりと鎮座する名草山。卿はこの明るく開放的な好景に飽きることなく見入っていたのでしょう。

 

聖武天皇と藤原卿は、私がこの日に通った和歌山線あたりの道を通って和歌浦へ来たのでしょうか。それとも、大和川沿いに海へ出て、船できたのでしょうか。

 

いずれにしても、このような美しい海を見るためには何日もかけて、さらに見ることのできない人にこの風景を「持って帰ってあげたい」と思うような時代はごく最近までそうだったのですね。

 

 

バスを逃したことで、和歌浦を歩くことができました。

 

 

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