行間を読む 178 南方を飲みながら

南方熊楠(みなみかたくまぐす)の生家という酒蔵では、夕方まだ働く人の姿がありました。

名前は知っているけれどどんな人だったのかはうろ覚えで、しかも正確な名前の読み方さえ危うい程度でした。

 

この日はお昼も食べそびれて空腹も限界です。和歌山駅のそばのお店にふらりと入りました。

17時なのでまだお店は静かです。

焼き魚がむしょうに食べたくなりメニューを見ると「さわらの塩焼き」がありました。やはり関西ですね。

お酒を見ると、先ほどの酒蔵ののれんに書かれていた「純米酒南方」がありました。

 

さわらが焼き上がるまで時間があるので、南方を飲みながらWikipediaの南方熊楠を読みました。

その時にiPhoneのメモに「南方熊楠、忘備録をつけた」と書き込んでいました。記録魔かもしれないと、ちょっと親近感を覚えたのでしょう。

 

その箇所はどこだったのかあらためて読み直して見ると、「上京」にこう書かれていました。

1883年(明治16年)、和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立中学校(現・開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門(のちの東京大学)入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バークレイが菌類6,000点を集めたと知り、それを超える7,000点の採集を志し、標本・図譜を作ろうと思い立った。またこの頃、手紙の控えなどからなる備忘録をつけている。

忘備録ではなく「備忘録」となっています。

 

確認すると、「忘備録(ぼうびろく)は本来は誤記だが(忘れるのに備える記録で備忘録)、和製漢語の造語法としては自然なため(目的語+動詞)、普通に用いられている」(Wikipedia)と書かれていて、初めて知りました。

 

 

南方熊楠の記憶法*

 

「記憶力」では、記憶方法が書かれています。

1. 自分の理解したことを並べて分類する。

2. 分類したまとまりを互いに関連させ連想のネットワークを作る。

3. それらを繰り返す。

KJ法に似ていますね。

 

すぐに忘れる私とは違い、南方熊楠は子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童で、成人してからも「必要なデータがどの本のどのページにあるか記憶」「原稿を書くときも、覚えていることを頭の中で組み立ててすらすらと書いていった」(Wikipedia)とあります。

 

「来歴」を読むと明治20年にはアメリカに留学したりその後大英博物館に職を得たりと、並外れた語学力と記憶力で華々しい人生のように読めますが、「評価」「論文」を読むとまた違う一面が書かれていました。

このように、広範囲の分野に多くの研究を行っており、その残されたものから判断すると、熊楠が高度な専門家であったことは間違いない。しかしながら、熊楠はこれらの分野において、ほとんど論文を発表していない。これは、出版された論文をもって正式な業績とみなす科学の世界では致命的である。

Wikipedia南方熊楠「評価」)

 

論文を書いていないわけではなく、「『ネイチャー』誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者となっている」(同上)のに厳しい評価のようです。

熊楠の手による論文はきちんとした起承転結が無く、結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口など全く関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。さらに猥談が挟み込まれることも多く、柳田國男はそうした熊楠の論文に度々苦言を呈した。しかし、思考は緻密であり、一つ一つの論理に散漫なところはまったくなく、こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を落ち着かせるために重要だったためと分析している。

 

学問の作法はわからないのですが、記憶力や観察力に優れその整理方法も努力していたのに何かが違ってしまったのでしょうか。

あの犬養道子さんに数学を教えていた人が「あんたの頭はごちゃごちゃしているからダメだ」というようなことを言った話を思い出しました。

 

このところの未曾有の事態が10年おきぐらいに繰り返されている時代に神童だったのだろうと思われる人が辻褄の合わない発言をするのも、あるいはあの問題を真正面から受け止めない社会の雰囲気もこんなあたりから来ているのだろうかと、凡人は少し酔っ払った頭で考えたのでした。

 

「南方」はすっきりとした飲み口でした。

 

 

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