散歩をする 399 南海電鉄から水間線へ車窓の散歩

和歌山市内の水色の線を辿った散歩は、期せずしてさまざまな歴史を知る機会になりました。

市内だけでなく和歌山の川をもっと歩いてみたいと後ろ髪を引かれる思いですが、今回の3日目の計画がたくさんありますから和歌山駅に向かいました。

 

2019年に紀伊半島をぐるりとまわった時は白浜からJRの特急で和歌山駅を素通りし、大阪に入る頃には日が沈んで沿線の風景はほとんど見ることができませんでした。

地図を見るとJRは内陸を走り、海岸線には南海電鉄が並行するように通っています。これならひたすら海を見ることができそうと思い、今回は南海電鉄に乗ることにしました。

 

そしてその前に、1990年代に徳島からフェリーで和歌山港で向かったその場所をもう一度訪ねてみたい、そして紀の川の河口を眺めてみたいと、和歌山港に立ち寄る計画がありました。

ところが和歌山市駅に着いた時にちょうど和歌山港行きが出発した後で、その次の便だと和歌山市駅に戻る列車が10時台になってしまうようです。9時から10時台はフェリーの発着が少ないのでしょうか。

ちょっと計画の詰めが甘くて、今回は断念です。

 

 

南海電鉄で海岸線を眺める*

 

8時3分発の普通難波行きに乗りました。

出発するとじきに並行して走っているJR紀勢本線支線からぐいと北と離れ、紀の川沿いの「宇治鉄砲場」という地名の場所を通過しました。どんな場所だろうと気になっていたのですが、古い工場がありました。

列車が上りになり鉄橋に入り、河口から2kmほどの紀の川下流部を渡りました。

悠々と流れる水面が朝日に照らされて美しく、ぜひまたいつか歩いてみたいものです。その先に工場地帯が見えました。

 

右岸側にわたると、紀の川駅の手前も水路と水田がありました。灰色の屋根瓦が美しい和歌山の風景ですね。

あっという間に高台へと上り、先ほどの海や河口のあたりが眼下に見える風景になったと思ったらトンネルに入りました。

山あいに和歌山大学がみえ、周囲の山は岡山のような悪石地形のようです。

小さな川に沿って無人駅がありました。孝子(きょうし)駅で、ふりがながないと読めませんね。1910年(明治43)開業だそうですが、どんな歴史があるのでしょう。

途中、煉瓦づくりの変電所が見えました。

 

ふと開けるような風景になり、みさき公園駅のあたりから左手に海が見えるようになりました。

真っ青な空と真っ青な海。そして右手の山側には平城京のように周濠のある古墳がところどころにあります。

その水はどこからきてどこへ行くのでしょう。途中下車してみたいのですが、また次の機会ですね。

この辺りは自然堤防で海が見えなくなりましたが、箱作駅の手前あたりからまた海が見え始め、灰色の瓦屋根の落ち着いた集落と美しい風景です。

通勤通学の人で混んできたので、ずっと後方のドア付近に張り付いて風景を眺めました。

 

関西空港が海に浮かんで見え、その海沿いには水田が見えました。鳥取ノ荘(とっとりのしょう)駅のあたりの水田では天日干しをしていました。11月初旬ですが、遅い稲刈りですね。

 

尾崎駅で急行に乗り換え、住宅地に水田が残る風景が続きます。泉佐野あたりからは自然堤防というほどではないのですが、海岸側よりも山側へと緩やかに土地が低くなっています。

地図ではこのあたりから溜池が増えるのですが、水が不足するために溜池を作ったというよりは低い土地で水が溜まりやすかったこともあるのだろうかと考えているうちに、8時45分に南海電鉄の散歩が終わり貝塚駅に到着しました。

 

 

水間線水間観音駅へ*

 

以前から地図を眺めていた時に、溜池の多い場所に真っ直ぐな鉄道があることが気になっていました。「水」という名前にも興味があり、今回乗ってみることにしました。

 

貝塚駅水間鉄道の歴史がありました。

貝塚を走る鉄道 水間鉄道の歴史

 

 水間鉄道は、水間寺の参詣と沿線地域の発展を目的として建設された鉄道です。

 1897(明治30)年、南海鉄道株式会社により大阪の難波と貝塚間が結ばれ、1903(明治36)年には和歌山市駅まで全面開通し、貝塚市内から大阪・和歌山両方面への連絡はきわめて便利になりました。しかし、当時の海岸部と内陸部との交通は貝塚と水間を結ぶ馬車の便がようやく開通した程度でした。

 この馬車に代わる大量輸送可能な交通手段として、水間鉄道の建設を考え出したのは西葛城村馬場(現在の貝塚市馬場)出身の川崎覚太郎という人物です。川崎氏は南海鉄道南海電鉄)に勤務時代、水間寺参詣の利便性と沿線地域の発展を考え、1913(大正2)年に有志らとともに「水間軽便鉄道株式会社」の名前で設立趣意書を作成し、その後、計画は中断・変更を経て苦労の末、1924(大正13)年に創立総会が開かれ、社名を「水間鉄道株式会社」に決定しました。

 1925(大正14)年、第1期工事区間である貝塚南駅(のち海塚駅、1972(昭和47)年廃止)ー名越駅間3kmが開通、翌年には名越駅ー水間駅間2.3kmが開通して、当初の計画であった水間鉄道5.3kmが完成しました。その後、1934(昭和9)年に貨物営業のみであった南貝塚駅への乗り入れが実現し、貝塚南駅ー貝塚駅間の旅客営業を開始し、現在と同じ5.5kmが全通しました。

 開通当時の貝塚市域は貝塚町、麻生郷村、島村、北近義村、南近義村、木島村、西葛城村の7つの町村に分かれていましたが、当時の有力者たちを中心に、町村の枠を超えて多くの人々がこの鉄道計画に賛同した結果、水間鉄道が建設されたのでした。

 開通以来、水間鉄道は日常生活の身近な交通機関として、通勤・通学や水間寺への参詣・観光などで多くの人々に利用されており、海岸部と内陸部を結ぶ唯一の鉄道として、なくてはならない存在となっています。

 

9時6分発の列車に乗り、水間寺に向かう賑やかな一団も乗り込んで出発しました。

住宅の窓がすぐそばに迫るような市街地を抜けるとずーっと真っ直ぐな線路が続いています。

また一番後ろの窓のそばに立って、遠ざかっていく風景を見ていました。

水田と濃い灰色の瓦屋根の家が増え始めました。近くに溜池があるはずですが、窓からは見えません。

古い屋敷群が増え、右手に川と溜池が見え始めました。駅ごとに説明板があり、全ての駅で下車してみたくなります。

 

途中、「みんなで乗って守ろう5.5キロ」という看板が見えました。

 

15分ほどで水間駅に到着しました。朝夕は1時間に3本、日中でも1時間に2本はあるようです。

一駅間も近いこういう路線はなんとも落ち着きますね。

 

水間寺駅は参詣で訪れる人のために休憩所があったり、観光案内が充実していました。

大きな「水間寺厄除け街道」という手作りの地図を覗き込んだところ、「行基様の水路」と赤字で書かれているのが目に入りました。

街道に沿うように流れる水路。昔行基様が作ってくださったそうな。

 

近くの溜池をたどって歩こうかと思っていたのですが、行基さんが作った水路があると知って計画を変更したのでした。

 

 

 

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