水のあれこれ 277 行基様がつくった水路を歩く

最初の計画では水間寺を訪ねずに、そのまま駅から川沿いに北へと歩く予定でした。

西側の千石堀城址、東側には落合城址にはさまれた場所を流れる川のそばにはいくつも溜池があります。どんな場所なのだろうと気になったのでした。

 

ところが水間駅にあった行基様がつくった水路の説明に、ここでも行基さんに出会うとはと計画を変更しました。

水間街道へ出て少し歩くと、石積みの水路がありました。あの説明を見ていなければ「普通の側溝」としか見えなかったことでしょう。のぞき込むときれいな水が流れていました。

街道沿いに少し現れた行基様の水路は、じきに右手の住宅街の細い路地沿いに流れが変わりました。

古い家並みがその路地と水路沿いに続いています。このあたりはコンクリートの水路で、途中高さの違う2本の水路になりその先に分水路がありました。現在も使われているようです。

家の前をこんなに美しい水が流れているなんて、なんとも心が落ち着く通りです。

 

ふと気づくと右手は次第に渓谷のようになり、家はその端に建っています。小さな畑もありました。

こういう場所に水を通し、そしてその先まで十数世紀も潤してきたのでしょうか。

途中でまた石積みの水路になり、水間寺の近くの川合あたりで取水しているらしいことがわかりました。

 

水間寺は二つの細い川の合流するところに建っていました。

最初の川を渡りお寺の境内を過ぎ、もう一つの川を渡ると道を隔てて目の前は少し小高い場所で森になっています。

案内板に沿って、森の中に入ってみました。

 

古い木造の「行基堂」があり、その先に小さな池がありました。

鏡池

この池は行基菩薩の作である名を鏡池というわけは行基が池の面に容を写してその面容を刻んだからである。この池には蛙の鳴く声を聞いたことがなく又泥蛭も居ない。それは丹(赤色)を蔵した器はその赤いのを掩うことが出来ず漆の器はその黒いのを掩うことが出来ないように、聖き水は汚れた生き物が生きることが出来ないからである。

しばしこの説明で立ち止ま離ました。最初の部分は理解できたのですが、後半の意味がよくわからないのが時代の移り変わりでしょうか。

いえ前半の部分でさえ、何かに写った自分の姿を容易に見ることができる現代では古来からの自分の姿を見たいという願望がどんなものかを理解することは難しいですね。

 

坂道を少し上ると、「閼伽井(一名行基水または薬師井戸)」という石碑がありました。

この閼伽井(あかい)はその昔聖武天皇の勅命を奉じ開山行基菩薩が当地に訪れたとき聖観音の顕現を念じて薬師如来像を祀りお供えに用いたという霊泉であります

故にこの閼伽水を行基水又は薬師井戸とも呼ばれています

仏に供える水を「閼伽(あか)」、その水を汲む井戸を閼伽井と呼ぶことを初めて知りました。

 

8世紀からの歴史をどこまで正確に伝えられているのかはわからないのですが、水田地帯を真っ直ぐに走る水間鉄道の終点にこんな落ち着いた街がありました。

行基様がつくった水路」としてどのように守られてきた歴史があるのか、もっと知りたいものです。

 

 

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