水のあれこれ 279 館林周辺の沼

2018年に渡良瀬遊水地を訪ねました。遊水地の周囲は結構起伏があった印象がありました。

当時はまだ私の頭の中の地図ではこのあたりは白紙のような状態でしたが、それ以来拡大したり縮小して眺めているうちに、館林周辺に「沼」が多いことを知りました。

 

群馬県というと頑強な地盤が広がるイメージでしたが、違うのかもしれません。

茂林寺沼から城沼を訪ねてもまだなぜ沼が多いのかよくわからなかったのですが、第二資料館で購入した資料で少し理解できました。

 

*「数多くの沼が存在する地帯」*

 

館林市史 館林の里沼 日本遺産認定記念」の「館林の「里沼」の特殊性」に以下のような説明があります。

 元禄十五年(一七〇二)頃の「元禄上野国絵図」(群馬県立文書館所蔵)には、市内の城沼(じょうぬま)・多々良(たたら)沼・近藤沼・茂林寺沼のほかに消滅した板倉沼(板倉町)や大輪(おおわ)沼(明和町)などが表示されている(第二章4、後掲写真2-4-1参照)。この地域は東毛池沼群とも呼ばれ、群馬県でも数多くの沼が存在する地帯となっている。北に渡良瀬川、南を利根川に挟まれ、洪積台地と沖積低地からなり、沼のほとんどは大地の谷に水が堰き止められてつくられた沖積堰止湖にあたる(本章2参照)。

 江戸時代の関東地方の大小河川や湖沼などを描いた関東水流図(写真1-1-2)にも、館林の多々良湖や城沼が描かれているが、さらに利根川を下っていくと、手賀沼印旛沼・牛久沼など大きな池沼とともに数多くの沼が描かれている。かつての関東平野には、河川の流路に沿うように大小の池沼が多数存在していたことがうかがえる。

 

「関東水流図」をみると利根川東遷事業のいつ頃の時代のものかはよくわからないのですが、まだ利根川や周辺の川が複雑に蛇行して渡良瀬川ともつながり合っている途中に城沼が描かれていました。

 

現在の風景や地図からは想像ができない水の流れです。

 

 

*「矢場川の付替えと新田開発」*

 

現在でも沼が多いと感じるのですが、江戸時代以前はもっとあったようです。

 

 平野部の池沼が開発された最大の要因として、江戸時代の新田開発があげられる。江戸時代初期の人口増加による食糧増産のため、幕府や各藩の奨励のもとで、池沼や干潟、浅瀬などの埋め立てや干拓が各地で行われ、陸地が増やされ耕地となった。しかし、池沼や干潟などの地域から水辺が失われ、環境は大きく変化した。

 

一方、館林地域での江戸時代の新田開発は、池沼の埋め立てよりも河川改修によって進められた。寛文四年(一六六四)以前では、北部の渡良瀬川の南に矢場川が流れ、広大な沖積低地(渡良瀬低地)が広がっていた。この年、木戸村から上早川田(さがわだ)村まで新川を開削し、矢場川を渡良瀬川に合流させた。この流路付替えによって、下野(しもつけ)国梁田(やなだ)郡だった木戸・足次(あしつぎ)・傍示塚(ほうじつか)・上早川田・下早川田などの村々が翌五年に上野国邑楽郡編入された。また河川の氾濫原だった低湿地が耕地に生まれ変わり、旧矢場川河道に沿って新当郷村や田谷村、四ツ谷村など新村が成立した。

当郷村(1642石→3036石)・北大島村(2892石→4666石)・大新田(640石→1143石)などの石高が増加している。つまり、館林地域での新田開発は、河川改修によって耕地が拡大したことから、池沼にはほとんど影響せずに生産高の増大が実現したといえる。一方、利根川沿いの大輪沼は、元禄十二年(一六九九)の谷田川拡張工事によって沼が干上がったため、新田開発を行なって沼が消滅したといわれている。

 

「川の付替え」、実際にどんな状況だったのでしょう。江戸時代の土木事業のダイナミックさに興味がつきませんね。

 

明治にはいると干拓事業が大規模に行われるようになったものの明治20年(1887)頃からは地元や水利組合からの反対に合い、戦後の食糧増産のために再び干拓事業が行われ、さらに高度成長期に農業以外の開発のための埋め立てによって沼が消失していったことが書かれていました。

 

館林周辺には現在も五つの沼が残っている歴史と川や沼と生活の関係が詳しく書かれていて、頭の中の地図と利根川東遷事業の年表がもう少し詳しくなりました。

 

それにしても海なのか、沼なのか、川なのか、地面の歴史は深いですね。

 

 

 

 

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