本当に歴史民俗資料館があるのだろうかと思うような、新利根川と広大な水田地帯という圧倒される風景のど真ん中で下車しました。
中神バス停から1.5kmほど東は霞ヶ浦への入江で、そこからさらに2.5kmほど南東に常陸利根川があります。
周囲には「新田」がつく地名があり、資料館があるあたりはその名も「八千石」でした。
バス停からは新利根川の対岸に歴史民俗資料館の建物が見えて、ホームページの「アクセス」では20分になっていましたが10分もかからなそうな距離です。
ところが歩き始めてその意味がわかりました。新利根川にかかる橋のたもとまで北側へと大きく迂回する必要があったからでした。
橋の真ん中では360度、視界をさえぎるものがない田園地帯と遠くの山並みが見えます。橋を降りたすぐそばに「農林水産省十余島用水機場」という大きな施設がありました。
田植えから稲刈りまでの時期はさぞ壮観な風景だろうと想像しながらまっすぐの道を歩いていると、「想定浸水深 3.4m」の標識があり、赤い印は電柱の見上げる高さです。
よくよく読むとすぐそばの新利根川ではなく、「この標識は利根川がはん濫すると最大3.4m増水する可能性」と書かれています。
利根川左岸の堤防から3kmほど離れています。
*稲敷市立歴史民俗資料館*
あまり想像したくない洪水のことを考えているうちに、図書館と歴史民俗資料館につきました。
大きくて立派な建物で、入り口には第7代横綱「稲妻雷五郎」の展示がありました。
中の展示は写真撮影ができなかったので記憶が薄くなってしまったのですが、霞ヶ浦周辺の変遷がわかる航空写真がありました。
ここから南東2kmほどの利根川左岸の堤防のあたりに、「野間谷原」という千葉県の飛地があります。想像していた通り、かつての旧河道だったことがその展示でわかりました。
資料館発行資料に「写真で見る干拓史」がありました。残念ながら完売のようですが、諦めきれずに職員の方に声をかけました。やはり残っていないようです。
「平成二十八年度冬季企画展 稲敷の景観 ー変化する道・水辺・交通ー」に「稲敷の干拓地」の説明があると教えてくださり、購入しました。
干拓について素人の関心だけれど今回は江戸崎から稲波を歩いてきたことを話すと、この地域のことをいろいろと教えてくださいました。
「桜川、漁業権がある頃は大きなタイが海から来た」「桜川の干拓、他の地域に比べて貧しかった」
「1963年に治水と塩害防止を目的として竣工した常陸川水門」による淡水化(Wikipeida「霞ヶ浦」「地理」)の頃の変化でしょうか。
桜川で地図内を検索すると、資料館から北西1.5kmぐらいの場所で現在は内陸部に見えます。
稲波、受刑者を干拓時に使って亡くなった。
2011年の大震災では近くの牧場が液状化の被害を受けて大変だった。
これからあちこちの「水神」を訪ねる計画を話すと、「水神社はあちこちにある。それぞれの家で氏神の担当がある」と利根川沿岸の水神についても教えてくださいました。
途中バスの車窓から見えた「十三塚」についての南北朝の頃の話から現代の話まで、尽きることなくあっという間に30分ほどが過ぎました。
もしかして学芸員さんですかと尋ねるとそのようで、お忙しい中お時間を頂いてありがとうございました。
そしてこの稲敷市立歴史民俗資料館を訪ねて良かったと一番印象に残ったのが、この資料館を建てられた方が後世に「水田を造る大変さを伝えるため」であったというお話でした。
帰りに、外に展示されていた黒いオブジェのようなものに近づいてみました。
「ディーゼルエンジン」「大須賀第2機場揚水ポンプ」、これもまた水田の記録の一つだったようです。
この大型エンジンは、昭和28年に完成した本新排水機場の2基の排水ポンプの補助動力として、昭和29年に設置されたものです。
◯◯(字が消えて読めない)干拓は、霞ヶ浦の水面より土地が低いため、つねに排水をする必要があり、台風等による停電や、モーターの故障時にモーターに代わり使用されていました。
大須賀第2機場揚水ポンプ
このポンプは、昭和27年に農林省により、水田の用水を汲み上げるため、大須賀第2機場(幸田)に設置されたもので、平成3年新たな土地改良事業により新農場が完成するまで、40年にわたり周辺700haの水田に用水を供給してきました。
資料館のそばの新利根川右岸に小さな神社があります。立ち寄ってみました。
御由緒などはなく、堤防より一段低いところに小さなお社がありました。そして堤防に赤い鳥居があって、新利根川へと参道がありました。
舟で参拝していたのでしょうか。
水田地帯の真ん中にある歴史民俗資料館と学芸員さんからのお話、なんとも充実感に満ちてバス停へと戻りました。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。