水の神様を訪ねる 70 安食の水神社を訪ねる

佐原の水田と水路、そして伊能忠敬記念館を訪ねることができて満足し、11時11分成田行きの列車に乗りました。

以前この路線に乗ったのは神栖を訪ねたときで、2019年の台風15号の甚大な被害のあとでした。あの時は、寒くなる時期だというのに屋根をブルーシートで覆った家々が車窓から見えました。

3年ほど過ぎて元通りの風景のように見えたのですが、生活を立て直すための時間はどんな感じだったのでしょう。

 

そんなことを考えていると滑河のあたりでぐいと利根川の堤防が近づきました。対岸はちょうど江戸崎です。ここから内陸へと向きを変え、11時41分に成田駅に到着。ここでホームが違う成田線我孫子行きに乗り換えですが、3分あるので余裕かと思っていたら乗り換え客で階段が激混みでギリギリで間に合いました。

11時55分安食(あじき)駅で下車しました。

 

*安食官堤と水神社*

 

安食駅から北へ1kmほどの長門川沿いに水神社があるのを地図で見つけました。地図を拡大すると成田線の線路沿いに「安食官堤」と地名が書かれています。印旛沼から利根川へ向けて干拓地が広がる東側に位置しています。どんな場所なのか見てみたいと、計画に入れたのでした。

 

駅から県道18号線を安食官堤に向かって歩いていると、幅が狭い踏切から忽然と歩道がなくなりました。両方から車がひっきりなしにくるので踏切をなかなか渡ることができずにいると、たぬきも道を渡ろうとしたけれど引き返してコケたのが見えました。たぬきもこけるのですね。

ようやく踏切を渡ると県道沿いが安食官堤という場所になり、両側が県道よりも低くなっていて尾根のようです。

かつては堤防の役割があったのでしょうか。

 

県道沿いは歩道も狭く怖かったので、一本山沿いの道を歩くことにしましたがここもまた細い道を前から後ろから車が来ました。地図ではのんびり水神社まで散歩のはずだったのですが。

 

*立嶋大師堂*

 

住宅地の真ん中に、十段ぐらいの石段の上にお社がありました。石段の両脇に植え込みはありますが、鎮守の森のような高い木々もなくまるでジオラマの中の山頂に立つ山小屋のような雰囲気でした。

 

地図では「水神社」と表示されていたのですが、ここでは「立嶋大師堂」として再建記念碑がありました。

 当立嶋大師堂は四郡大師護国教会に属する御堂である。稲敷・相馬・印旛・殖生(栄町、成田市等の昔の呼称)四郡に跨る八十八ヶ所の霊場で、文政年間殖生郡東金山の大見川安衛門が四国の霊場より拝領した土を盛り利根町徳満寺を結願寺とする由緒深きものである。

 然し百六十余年の風雪に耐えて来たものの痛みも甚だしくなった為、再建の運びとなったのである。

 再建に当たっては世話人衆の努力と百人近い信者の御浄財を賜り、棟梁加瀬公彦氏の建設により平成元年三月吉日完成落慶を迎えるに至ったのである。

 茲にご賛同下さった信者の御芳名を刻み、末長く感謝の意を表する次第である。

 

石段十段ほどの高い場所は水害を免れるような場所で、そのために水神社が建てられたのだろうかと推測したのですが、全く外れました。

「四国の霊場より拝領した土を盛り」

どうやって十九世紀はじめに四国からここまで運んだのでしょうか。

 

そして前日に歩いた稲敷利根川をはさんでちょうど対岸に位置ししていますが、当時、「四郡」としてこの地域のつながりはどんな雰囲気だったのでしょう。

 

先ほどの交通量の多い道をまたヒヤヒヤしながら駅に戻り、駅前の地図を読み直すと「駒形神社」になっていました。

なぜMacのマップでは「水神社」なのでしょう。

 

なかなか歴史をたどるのは難しいですね。

次に同じ栄町のもう一つの水神社へ向かいました。

 

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