興国寺城跡からは、県道22号線に沿って岳南鉄道江尾駅まで歩きました。
北側を通る東海道新幹線と近づいたり離れたりしながら緩やかに蛇行するその道は、かつての浮島沼の北縁沿いだと思われます。
いつもあっという間に通過する新幹線の車窓からは何ヶ所も切り通しが見え、その切り通しの間には小さな沢があってその沢沿いに集落や畑が見える場所です。
いつか歩いてみたかった道です。そして歩くだけで新幹線を見ることができる夢のような道のはずですからね。
県道は交通量が多い上に、白線の歩道だけで歩く人はほとんどいません。
前から後ろからの車を避けながら歩き始めました。
新幹線のE席からはお茶畑が見える区間ですが、この県道沿いにはお茶屋さんや根古屋茶生葉出荷組合がありました。山へ向かってすぐに石段になっています。
だいぶ小高い場所を歩いている雰囲気でしたが、電柱には「ここの地面の高さ 海抜3.0m」とありました。
緩やかに下ると一本めの沢があり、井出橋を渡ると横を新幹線が通過して行きました。そのさらに山側に東名高速道路が通っています。
次回はここを通過するときに見逃さないようにしたいものです。
*「弁天さまと井出の里」*
そこから100mほど歩くと南西へと少し曲がった先に、地図には水色の溜池のような場所が描かれています。何があるのだろうと思っていたら、池のそばに祠があります。
弁天さまと井出の里
弁天さまは、原名「サラスヴァティー」と云い、意味は「水に富む者」で、元はインド大河の女神です。
辻直四郎訳「リグ・ヴェーダ讃歌」によると、諸川の中にただ独り、サラスヴァティーは、きわだち勝れり、山々より海へ清く流れつつ。広大なる世界の富を知りて、ナフスの族(人類をさす)にグリタと乳とを抱きし来れり、と云う。グリタとはバターの溶液のことであるから、豊かな富を人々に与えた訳である。
「人類をさす」。人はいつ頃から我々は人類であるとか、人類のためにとか認識するようになったのか考えると、ちょっと気が遠くなりそうですね。
弁財天の説明に続いて、この池の説明もありました。
この池は、放生池と云い、生きものを放って住まわせる池で、これは仏教の慈悲の精神から起こったもので、捕えられた魚や鳥を池沼山野に話す法会のことを放生会と言い、万物の生命を尊重する精神と、平素の殺生に対する供養の現れです。
このような意味からも、弁天島は古くより鯛の形をなし、昔疫病や干ばつの時など、弁天さまに祈ると、その功徳力により災厄を免れることが出来ました。
ただの溜池ではなかったようです。
道の反対側は山へと斜面になった場所に家が立っていて、その敷地の下から水路があり、家の前に水場がつくられていました。
地図にはない小さな流れが山から浮島沼へと流れているようです。
*沼津市から富士市へ入る*
地図では「平沼」ですが、そのあたりから上り道になりました。下を向きながら歩いていると海抜は4mからしだいに8.5mになったあたりの高台に八幡神社があり、平沼地区の土地改良記念碑が石段の下にあり、その水田地帯が一望できました。
新幹線が時々通過していく姿に励まされながらさらに上り坂を歩くと、吹上バス停のあたりで海抜14.5mになり、富士市の製紙工場のあたりが見えてきました。
ここから下り坂になり、荒久バス停のあたりからは山からの水路が増え、あちこちから水音が聞こえてきます。
手前の山に隠れていた富士山もまた見えるようになり、いつの間にか沼津市から富士市に入りました。
それまでは白線の歩道だったのが、暗渠を利用した歩道になり、少しのんびりと歩くことができるようになりました。
おそらく山が迫る浮島沼のすぐそばの集落を細い道でつないでいたものが、1960年代ごろからの車社会への変化の中で歩道を確保することが難しい時代だったのでしょう。この頃から水路を暗渠にして歩道として活用されたのだろうと思い返しています。
少し大きな川に立派な橋があってそばに「春山川、富士川水系」と書かれていたのでのぞき込んで見たら、水無川でした。
船津という地名で、どんな川の歴史があるのでしょうか。
このあたりで新幹線の線路が南西へと向きを変えて、この先で県道22号線と交差します。
新幹線がひっきりなしに通過していくのでした。
高架橋の下で線路の北側に出て、興国寺城跡から歩くこと約1時間半、12時6分岳南鉄道江尾駅に到着しました。
駅の花壇を整備されていらっしゃったのは地元の方でしょうか。ここもトイレがとてもきれいです。
沿線の水の美しさとともに何度も訪ねてみたいと思う路線です。
ここまでですでに1万3200歩ですが、次にやり残した宿題のひとつ岳南鉄道沿線の湧水を歩きます。
「散歩をする」まとめはこちら。