記録のあれこれ 142 後楽園用水とは何か

「後楽園用水」を知った時に、どこを流れているのだろうと後楽園側から水色の線をたどっていくと百聞川を越えて、太い水色の線が旭川の方向へとつながっています。これが後楽園用水かと思っていたら、これは祇園用水でした。JR高島駅の前の案内図にも「後楽園用水」は書かれていませんでした。

 

後楽園用水とはどの水路なのか案外とわからないものだと検索してみたところ、頼みのWikipediaもなく「岡山デジタル大百科」の以下のような簡単な説明ぐらいでした。

 後楽園用水は、祇園大樋から旭川堤防外沿いを南流している用水路です。現在は灌漑用水としては使われておらず、ホタルの里として親しまれています。

 かつて池田綱政公が後楽園を築堤するにあたり旭川の水を祇園分水樋門地点で分流して後楽園まで導いた全長約4キロメートルの用水路が後楽園用水です。

(強調は引用者による)

 

旭川堤防外沿いを南流」「現在は灌漑用水としては使われておらず」となると、堤防沿いの「外田溝用水」でしょうか。ところが「祇園大樋」の説明板では、外田溝樋門から分水されている外田溝用水とは別に、「後楽園用水樋門→後楽園用水」と書かれていました。

後楽園用水、いったいどこにあるのでしょう。

 

 

*先人の記録を探す*

 

こんな時には先人の記録が頼りですね。

「Gochaごちゃサイト from OKAYAMA」というブログがありました。どのような方か、いつ頃まとめられたのかはわからないのですが、「後楽園」「閑谷学校」など歴史がまとめられていました。

 

後楽園への導水

 

 貞享3年(1686)、津田永忠は藩主池田綱正より築園を命ぜられ、場所は選定したものの、一番大きな問題は導水方法でした。園に曲水を設けることは設計段階から決定されており、大量にきれいな水を園内に引き込まねばならなかったのです。

 

 後楽園の場所は、元は旭川の洲状態の低湿地帯でした。築園にあたり、洪水に耐えられるだけの強度と高さに盛土をして護岸を造ります。しかし、取水する段になると旭川の水位が低くなり過ぎます。それに、満潮時は潮が上がって来るため塩分を含み、伏流水でも用いない限り、水質自体が園には適しません。そこで、永忠は水源を5km以上上流の旭川本流に求めました。旭川流域の農地に用水路の必要性を以前から感じていたので、幅3mの後楽園用水を設け、途中で分流させて農地に配水しようと考えました。

 

 実は、用水路の水を園内にどう導くかが最大の問題でした。後楽園まで盛土で陸続きにして直接繋げるわけにはいきません。旭川が洪水になったとき、激流がお城を直撃する危険性があり、その際に後楽園の北側に荒手を設けて、激流の水を逃す分流を設けておきたかったからです。とすれば、用水路を直接に園に引き込むには、石の懸樋(分流と立体交差させる水の橋を作る方法)で対応させることになりますが、莫大な費用を要します。そこで永忠が考えた案が、用水路から後楽園までを水管でつなぎ、その水管を旭川分流の川底に埋めるという方法でした。川底の下に引き込まれた水が後楽園の高さにまで引き上げられるので、一般にサイフォンの原理を用いたと言われている方法です。

 

 実際には、後楽園の曲水の始点(湧水口)は後楽園に到達した水管と横に少しずれています。水は高きから低きに流れることから、曲水の中で最も高い地に始点(湧水口)を設けたのでしょう。園内を廻る曲水にも、流れを作るために高低差が設けられています。

 

ここでもまた先人の方の記録に助けられました。

 

 

川や用水路を訪ね歩くようになって、あの玉川上水と残堀川が交差するところのマジックのように川と川を交差させる技術に驚かされます。それがサイフォン式ということを知ったのがいなみの台地の淡山疏水で、明治から大正にかけてイギリス人技師が導入したものでした。

近代に入ってからの土木技術かと思っていたら、なんと17世紀にはすでに使われていたのですね。

 

あと少しで岡山駅に到着というあたりで旭川を越え、その少し下流に後楽園と岡山城があることを感じながら下車する準備を始めるのですが、そこにはこんな用水路の仕掛けがあったとは。

今度こそ後楽園用水沿いを歩いてみたいものです。

 

 

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