行間を読む 186 後楽園の井田

早島駅から宇野線に乗り広大な干拓地を車窓に眺めながら10時30分岡山駅に到着、今回の散歩の最後の目的地である後楽園に向かいました。

 

1月中旬、穏やかな快晴の日曜日とあってたくさんの人が訪れていましたが、園内は広いのでゆったり静かです。

目指すのは西の端の方にある井田(せいでん)です。

 

2021年12月に播磨国から岡山へ訪ねた時に車窓から伊里川の付近が干拓地のように見えたことから知った「井田」をぜひ訪ねたいと、その3ヶ月後に訪ねたのでした。

そして後楽園にある井田の模型も訪ねる計画でしたが、冷たい雨で断念したのでした。

 

目の前には伊里川の井田よりも小さい規模で九つに区切られた田んぼがあり、説明板がありました。

井田(せいでん)

昔は園内に広く田畑が作られていましたが、今は井田だけがそのなごりを伝えています。井田とは中国周時代の田租法で、幕末に田畑の一部を井田の形に作りました。

毎年初夏には、お田植え祭りを行い、もち米を育てています。

 

パンフレットには「2000年の時を経てよみがえった大賀ハスは6~7月頃が見頃です」とあり、古代蓮の歴史とつながりました。

四季折々の井田の風景を見てみたいものですね。

 

*17世紀半ば、どのような時代だったのだろう*

 

井田に惹きつけられたのは、その考え方でした。

寛文10年(1670年)、備前岡山藩主・池田光政重臣の津田永忠に命じて干拓地を新田に造成する際、中国周時代(紀元前1,100年頃)の井田制を適用しました。

井田制とは全体を「井」字形に9等分した区画の中央に公田を配置し、周りの8つが私田で、中央の公田の収穫を租税として納めるもの。税率的に理想的租税と言われる。

(「真魚市と伊里周辺の街並み」より)

 

消費税をはじめ搾り取られている感じが強くなる現代の毎日ですが、江戸時代にこんな発想があってそれを干拓地に取り入れようとしたことが印象に残りました。

 

そして同じサイトのこの箇所も印象に残りました。

 のち池田公は後楽園の中に、この井田の模型をつくり農作業をさせてその労苦を感知したという。

 

Wikipedia「後楽園」の「幕末まで」の中にも、「当初の園内は綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていた」という記述があり、大名の享楽のための庭園のイメージとは違っていました。

 

そして後楽園用水の歴史で「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という後楽園の由来を知りましたが、それがどんな時代背景から来たのかあれこれ想像しています。

 

Wikipediaの「築造の歴史」を読むと、旭川の氾濫で洪水の被害に疲弊していた城下を治水により守った時代でもあるようです。

 

それほど財政的にも厳しい状況なのに理想的な税制を取り入れようとし、また田畑を耕す大変さを君主自ら知ろうとした。

もしかするとその前の時代が悪政で、その反動からより普遍的なものを求める動きが出てきた時代だったのではないかと、現代の雰囲気を重ね合わせながらちょっと希望が出てきました。

 

きっと悪い時代は続かないですよね。

 

 

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