記録のあれこれ 144 知恵の樹の実を食べたくなる

散歩をするようになり鉄道やバスに乗ると、自分の能力がいかに不完全かを実感させられます。

 

大層な話に聞こえるのですが、まず「どちらか一方の風景しか見ることができない」ということです。指定席の場合は「より海や川を見ることができる側」をまず選びますし、普通車の場合には場所によって移動しています。

 

そうすると「反対側の風景はどんな感じだったのだろう」と口惜しい感じ。

往復の場合には海側と山側と変えて座席を変えることもできますが、一筆書きのように進むとどちらか一方だけですからね。片側の風景の印象だけでは、本当にその地域の雰囲気はわからないので何かを見落としている気分になります。

 

最近は新幹線や高速道路のすぐそばまで住宅地になってきたためか、防音壁に囲まれて最前列でないと風景が見えない場所が多くなりました。

さすがに新幹線はこの走行方向や最後尾の風景を見ることはできませんが、座席の片側しか見えない風景と、運転席や最後尾のパノラマの風景とはまた別世界で、ほんと「世界が広がる」感じです。

 

 

360度全ての風景を一度に見てみたいけれど叶わない。

これが私の感じる「人間の限界」です。

 

技術が発達して座りながら全方向が見えるようなスクリーンビューが各座席についたとしたらと妄想するのですが、やはり一度に見えるものには限度がありそうですね。

ゆっくり走行する新幹線からの風景を記録してみたのですが、視線を下に移してメモをしているだけで見逃す風景が出てきますし、興味の持ち方によってもずいぶん見落としています。

そして4時間ぐらいであの程度の記憶と記録が限界でした。

 

さて「神とは何か」とこれまた大層なことを考え続けてきたのですが、私にとっては「全ての現象を把握する」あたりかなと。

 

ものごとを観察する点において不完全な人間は鳥瞰と俯瞰も混乱しやすいですし、自分が見たことや信じたことが事実だと思い込みやすいので、神にはなれないし神に匹敵するような技術もまたありえないのかもしれない。

 

それが知恵の樹の実を食べたくなる話かもしれないと思うようになりました。

全てを把握したいという情熱がさまざまな進歩を生み出してきたけれど、その「小さな神になりたい」と思う失敗はあらゆる世界でいつの時代も姿形を変えて現れるのかもしれない。

 

車窓の風景を眺めながらそんな偉そうなことを考えたその瞬間にまた意識が飛んで、車窓の風景を見逃したのでした。

ほんと、私って不完全ですね。

 

あ、私が欲しい能力は車窓の全方向の風景をまるでビデオのように頭の中に正確に記録することです。

 

 

 

 

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