落ち着いた街 33 水門町から東大寺へ

散歩の二日目はいよいよ東大寺二月堂を訪ねる予定です。朝8時に近鉄奈良駅につきました。気温は7度ですが、日差しがあるとすでに暑く感じます。

 

近鉄奈良駅の地上に出ると、なんと行基さんの像がありました。前回近くで食事をしたのに気づかなかったので、何かを知ることで見えるものがまた違ってきますね。

 

ここからは上り坂です。ちょうど通勤時間帯で大勢の方々が山へ向かって歩いていました。

こんな通勤うらやましいなと思いながら通勤している雰囲気で紛れ込んでみましたが、やはり実際には「仕事行くの嫌だな」となりますよね。

 

右手は公園の一部になり、観光客がほとんどいない時間なので鹿せんべい売店のそばにいる鹿が近づいてきます。通勤ではないと見破られているかのようですが、先を急ぎます。

 

*水門町を歩く*

 

県庁東交差点で、人の流れがなくなりました。目指すのは水門町です。

 

2年間で4回目の奈良訪問ですが、東大寺のあたりは少し避けていました。新型コロナ感染拡大で観光客が少なくなって、広大な奈良公園の鹿も暇そうな時期でも猿沢池から興福寺はそれなりに人が多かったので、東大寺も混雑しているだろうと思っていました。

 

今回はその二月堂が目的ですから地図を眺めました。山側から細い川の流れが小さな溜池になったり、いく筋もの流れが大和平野の中心部へと流れていく様子に、やはり実際に歩いてみたいと思いました。

東大寺本堂から下へ200メートルほどのところに「水門町」を見つけました。

どんな水の歴史がある場所なのか、訪ねて見ることにしました。

 

県庁東交差点を土塀沿いに歩くと水門町へ曲がる道があるはずでしたが、残念ながらその地域の保存のための改修工事中でした。引き返して、別の道を曲がると古い屋敷の壁に挟まれた道になり、その先のつきあたりに吉城(よしき)園という屋敷跡の向こうに朝日に輝く若草山が見えました。

もしかすると何世紀もいえ十何世紀も同じような朝の風景かもしれないと思えるほど、若草山の風景をさえぎるものが少ないですね。

 

静かな道を歩くと、山の方から吉城川が曲がりながら住宅のそばを流れています。小さな流れでしたが、雨が降れば激しい流れになりそうな川です。

大きな蔵や古い家が残る静かな道を歩いていると、「水門町自治会」の表示があり、また小さな流れがありました。

 

水門町の由来はわかりませんでした。

 

東大寺福祉療育病院*

 

右へ曲がると東大寺福祉療育病院です。

奈良県の地図を眺めるようになって、東大寺に病院があることを初めて知りました。1955年(昭和30年)に設立されたようです。

 

東大寺福祉事業団の案内

今から1260余年前、東大寺の盧舎那大仏を造顕された聖武天皇とそのお后の光明皇后は、現在の病院や社会福祉施設にあたる悲田院や施薬院も建立され、人々のために尽力されました。この故事の則り、社会の要望にも答えるため、東大寺は「社会福祉法人東大寺福祉事業団」を設立し、聖武天皇の1200年御遠忌の記念事業として昭和30年(1955年)、「東大寺整肢園」を解説しました。

東大寺福祉療育病院、ホームページより)

 

悲田院や施薬院は、学生時代に医療史で習った記憶があります。以来40年以上医療の中で働いてきたのに、東大寺の敷地に1955年に病院ができた歴史、そして病院とは何かを知らなさすぎました。

 

この病院のあたりから木々が増えて上り坂です。

森のような緑の上に、東大寺本堂の大きな屋根と金色の鴟尾(しび)が見えました。

 

朝8時半、ほとんどすれ違う人もいない東大寺とその近くの街でした。

 

 

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行基さんの記事のまとめはこちら