生活のあれこれ 21 歩くだけで成り立つ生活圏

二月堂のお水取りの若狭と奈良のつながりを歩く散歩の最終日の朝、大津のホテルで3時に目が覚めました。

遠くの山や街の明かりが琵琶湖に沿ってあるので、真っ暗な中でも琵琶湖の存在を感じます。

東京から奈良、奈良から大津そして今日は小浜へと、3日間で滞りなく旅をしていることが夢のように感じる朝の時間です。

 

テレビをつけるとNHKBSで空からのヨーロッパの風景を映していました。

丘のような場所を繋いでいる街道沿いの村の様子でした。

 

村のすぐそばまで畑が広がっています。

村の家は集合住宅が多いようで古い建物なのに手入れが行き届き、広場を中心に同じような色やデザインで統一されているので風景の中に溶け込んでいます。

洗濯物やら家の周囲に雑然と物が置かれていることがない文化はどうやってできてきたのでしょうか。

景観の管理も自分の生活の一つでしょうか。

私の上の階の方が時々洗濯したシーツをベランダの柵に干すのですが、その端がうちの窓からの風景を遮ることがあることを思い出してため息が出ました。

 

 

そして中心部はそれなりに家も人も多く市場には人がたくさん集まっているのに、車が本当に少ないのはどうしてだろうと、こうした番組を観るたびに我と彼との差を感じます。

動いている車の数だけでなく、駐車している車もわずかです。

日本だったら市場的な場所は車がないといけなくなってしまったのはなぜなのでしょう。

 

街の中には信号機もないし、車が速く通過できるための高架橋もなく、平坦で素朴な道が続いています。

よく見ると歩く人も自転車の人も少ないのに、歩道はゆったりとしています。

車や自転車や人混みに追われることがないようです。

 

集合住宅にも泊まっている車がほとんどありません。

みなさん、歩いて生活しているのでしょうか。

 

ああ、でも半世紀前の子どもの頃の生活圏はこんなものでした。

たまにバスで市の中心部のできたばかりのスーパーマーケットに行くぐらいで、歩ける範囲が生活圏内でした。

父も30分以上歩いて通勤していたと思い返しています。

 

そして周囲は美しい山や湧水が身近にあるような場所だったので、あえてどこかに出かけるということもなかったのかもしれません。

 

最近あちこちに遠出をしていながら、もしかするとそれはなくしたものを探しに出かけているのではないか。

旅先でこうした風景の番組を観ていると、移動にかかる時間と快適性が格段に良くなったことと生活の中で失ったり壊れていったものとの間で少し混乱した気持ちになるのでした。

これも時代の葛藤でしょうか。

 

 

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