水の神様を訪ねる 75 若狭のお水送りの神様

ひっきりなしに車が通る国道27号線沿いにある遠敷(おにゅう)バス停で下車し、少し遠敷川の方へ戻ったあと、県道35号線へと曲がりました。

 

すでにどこからか水路に水が流れる音が聞こえてきます。県道から山裾沿いを通る道へと寄り道してみました。コンクリートの蓋がしてあるので通り過ぎそうになりましたが、少し開渠になった場所を覗くときれいな水が勢いよく流れていました。

「遠敷の街並み」という案内板がありました。

針畑越え 最古の鯖街道の歴史的景観

遠敷の街並み

若狭街道と針畑越え(根来坂)の分岐点に広がる街並み。古代には、付近に若狭一宮、国分寺国府が置かれた若狭中心地でした。江戸時代には北前船で運ばれたメノウの加工が盛ん行われ、上方へ大量に出荷されました。現在も街道沿いに伝統的民家が建ち並んでいます。

 

先ほどの国道27号の旧道でしょうか、緩やかに曲がりながら道が続いていて古い家屋もありました。昭和30年ごろにはこの街道ぞいにたくさんのお店が並んでいたという「丹後街道にぎわい遠敷昔絵図」もありました。水路も描かれています。

 

あとでここを歩いてみようと、その先にある若狭姫神社へ向かいました。

石造りの立派な水路から水音が聞こえてきます。

ここから1.5kmほどのところにある若狭彦神社の下社になるようです。今回は若狭彦神社までは時間が足りなかったのですが、何かお水取りについてわかるかもしれないと立ち寄りました。

森を背景に木造のお社が建っていて、静寂そのものです。境内に入ると安産育児の神様であることと、「奈良東大寺二月堂のお水取りで名高い遠敷明神は即ち当神社のことであります」と書かれていました。

 

無事にここまでたどり着けたこの3日間に感謝し、遠敷川沿いを歩いてから先ほどの街道を歩くことにしました。

 

川の方へと住宅街を歩いていると、少し離れたところから私の母の世代ぐらいの女性がずっと私を見ています。あいさつをしながら通り過ぎようとすると、「誰かと思って」と声をかけられました。よそから来た人を警戒しているのかと思ったら、遠くに住むお子さんが戻ってきたかと思ったようでした。

しばらく立ち話をしました。1ヶ月ほど前までは雪が残っていたようです。ここで生まれ育った方でしょうか。どのような人生を過ごして来られたのでしょう。

 

 

堤防の方へと歩くと、なだらかな山から遠敷川がゆったりと流れていました。美しい川です。満足して静かな街並みへ戻ると、休憩所に「お水送り」の説明を見つけました。

「お水送り」とは?

 

 一方、若狭では、寛文七年(1667)編の『若州管内并越前敦賀寺社什物記(じゃくしゅうかんないならびにえちぜんつるがじしゃじゅうもつき)』の遠敷の項に「音無川鵜の瀬の水南部の二月堂へくぐり牛王(ごおう)の水に用るの由申伝へ候」とあり、延宝三年(1675)の『若州管内社寺由緒記』の下根来の項にも「依古(いにしえより)毎年正二月に南京二月堂の修正学鵜の瀬以水為阿伽 則別当は神宮司蓮如坊代々勤法会」という記録があり、さらに古く室町時代頃に行事が始まったという伝承があります。

 また東大寺編集の『お水取行法記』には「音無川は若狭の国小浜町を流れている小川であるが、若狭にも此伝説があって、今尚二月堂へ水を送る式を行っている、明治四十一年の秋、小浜に旅行した時、精(くわ)しく此の話を聞いた、水を送る式は小浜町より約一里、音無川の上流に一小祠があって、其境内を流れる川水は澱んでいる、其所へ夜の十二時頃手松明(てたいまつ)を焚きつつ小浜の町民并に付近の人が集まって送る」と記され、昭和三十六年の観光開発以前にすでに松明行列が行われています。

 しかし、なぜ鎮護国家の寺である東大寺に、それも遠方から、諸国の中でも「若狭」が水を送ることになったのでしょうか?

 これについては、『東大寺要録』の記載が唯一の根本資料で、残念ながら史実は何一つ残されていませんが、遠敷の神様が海へ漁に行っておられたように、古くから若狭魚介や塩は宮中の神殿や天皇の食膳に上る神聖な「御贄(にえ)」や「御調塩(ちょうえん)」となり、都城で若狭の産物が「清浄」だという評価があったことが大きく関わっているのではないでしょうか。そのために、二月堂本尊に供えられる香水も、はるばる遠敷川の清流が、物資を送った遠敷郡家・遠敷明神とともに、清浄な水として選ばれたとも考えられます。

 この遠敷から根来谷に入り近江国高島郡小入谷(おにゅうだに)に向かう道は、最も都へ近い道として重用され、この道筋には水を送る鵜の瀬や若狭比古神・比売神降臨の白石があり、国境の峠には都方面から来られた兄弟神の伝説があり、さながら都との交流をよく伝えています。

 なお、鵜の瀬から水が送られる深夜には遠敷川の水は流れが絶え、地元では「音無川(おとなせがわ)」と呼ばれています。また京都では、若狭の水は一回顔を出すと言われ、水薬師の池にはサバ(淡水性トゲウオか)が泳いでいるとか、塩小路を過ぎると若狭水から塩気が抜けるとも言われています。

 

読んでもなかなかわかりにくいのですが、遠敷明神の逸話が印象的でした。

若狭彦神社の神事としては「お水取り」が知られる。当地の伝承では、ある年、奈良市東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。白石から下ったところにある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。

Wikipedia「若狭彦神社」「お水送り」より)

 

「遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまう」

「鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じている」

十数世紀前の人は、どのような状況からこのような発想になったのでしょうか。

 

あちこちから水音が聞こえる静かな旧街道沿いを歩き、また遠敷バス停へと戻りました。

 

 

 

 

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