水のあれこれ 294 河口に建つ小浜城

遠敷川沿いに県立若狭歴史博物館や国分寺もあり、東小浜駅周辺はまだまだ歩きたいところがありましたが、1時間に1本のバスを逃さないように遠敷バス停へと戻りました。近江今津からのバス路線ですが、この辺りからは乗車する人が多いようです。

 

10時25分に懐かしい小浜駅に到着しました。11時57分の敦賀行きに乗るまで1時間半あります。

2年半ほど前に訪ねたときに行けなかった小浜城と水取という場所を目指す予定です。この時には、「水」がつく地名で気になったのですが、今回は奈良のお水取りとつながっているのだろうかと歩いてみたくなりました。

 

意気揚々と歩き始めたのですが、鯖街道のことを考えていたらお腹が空いてきました。

杉田玄白記念公立小浜病院の先にあの食べればよかったと後悔が続いている鯖焼定食のお店があるはずです。小浜城と鯖のどちらを取るか。開いていたらお昼ご飯にしようと決まりました。

 

ところが、たしかこのあたりと思った建物は別のお店になっています。

この3年間が影響したのでしょうか。

本当に幻の鯖焼き定食になってしまいました。

 

*小浜城へ*

 

小浜城を訪ねたいと思った理由は、その場所にありました。

南川、多田川そして北川の3本の川が近づきながら小浜湾へ流れこむ場所にあります。

洪水が起きれば被害は大きそうな場所です。なぜここに城を建てたのだろう、海のそばで淡水はどうやって得ていたのだろうということが気になっていました。

 

前回は遠いと思って途中で諦めましたが、2回目となると土地勘も少しあるためかそれほど遠く感じないのは不思議ですね。

まっすぐ橋の方へと向かうと、橋の付け替えで通行止めになっています。今回もまたダメかと思ったら歩行者用の小さな仮橋があり、無事に南川を越えることができました。

その先に小浜湾と港が見えます。

 

「城内」という場所は、屋根ぐらいの高さの堤防にぐるりとおおわれていていました。階段を降りて集落の中に入ると、やはり屋根ぐらいの高さの石垣が見えてきました。

小浜神社があり、小さな公園では近くの保育園の子どもたちが遊んでいました。

小浜城址

南川、北川とそれを利用した外堀で囲まれ、西は小浜湾に面し、東は湿地により防御するという自然地形を巧みに利用した全国でも珍しい水城(みずき)。

関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)、若狭の国主となった京極高次(お初の夫)が築城に着手。寛永11年(1634)、2代藩主京極忠高が松江に転出の後、酒井忠勝が城主となり、翌年には三重三階の天守ができ、寛永19年(1641)にに城が完成。以降、酒井家14代238年間の居城となり、焼失する明治4年(1871)まで歴史は続いた。現在は城郭の一部の石垣を残すのみ。本丸跡にはさかい忠勝公を祀る小浜神社が建っている。

 

海と河口に囲まれた場所ですから、もしかして対岸の「水取り」という場所から水を得ていたのかと想像したのですが、小浜神社が発行している「小浜城と小浜城下町」という資料に「嘉門の井戸 小浜城内にあった井戸の跡です」と書かれていました。

このような場所でも井戸で淡水を得られるのですね。

どうやってこの場所を定めたのでしょうか。

 

もうひとつ「ごあんない」という説明板があり別名は雲浜城であることと、明治4年に城内に大阪鎮台を設置工事中の失火で城の大部分が焼失したことが書かれていました。

 

大阪鎮台とはWikipediaによると日本陸軍の部隊のようですが、1871年明治4年)に発足し「当時は徴兵制がなかったので旧藩兵から採用された」と書かれています。

江戸時代から明治へ、各地のお城がこうして軍の施設へと変わっていった時代の雰囲気はどんな感じだったのでしょう。

「失火」とあるので、天守閣は守りながら軍の施設を造ろうとしたのでしょうか。

 

今も残る立派な石垣は、見る人によっても違う時代の想いが感じられるのでしょうか。

 

 

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