水のあれこれ 296 那賀川と羽ノ浦

那賀川下流を歩こうと決めたものの四半世紀前の記憶は上流のことだけで、地図を見ても全くどこを歩いたらよいか見当もつきません。

 

取水堰や水路らしき場所そして地名を眺めているうちに、那賀川が蛇行しながら山あいから流れてまっすぐな流れになるところの左岸側に取水堰と用水路らしい場所があるのを見つけました。

地名は「羽ノ浦」で、羽がつく地名にひきつけられてここにしようと決めました。

最寄りの駅はJR牟岐(むぎ)線羽ノ浦駅で、直線距離では3~4kmほどに見えますが実際に歩くともっとあることはよくあるのでかなり歩くことを覚悟した方が良さそうです。

 

那賀川の堤防沿いも歩いてみたいと思い地図を眺めていると、牟岐駅のあたりからまっすぐ南へと通る県道130号線沿いに羽ノ浦古庄という地域があり、先ほどの用水路が分水されて複雑な水色の線になっています。

 

さらに橋を渡ると右岸側の堤防沿いに水神社を見つけました。

まずはここを歩いて、その後那賀川の堤防沿いに川を眺めながら堰を訪ねてみよう。よく見ると堰の近くから宿泊予定の阿南駅の近くまで行くコミュニティバスがあります。

サクサクというほど簡単ではなくちょっとした産みの苦しみの時間がかかりましたが、大まかな計画ができました。

 

 

那賀川北岸用水の歴史*

 

ただ、それがなんという名前の堰と用水路でどのような歴史があるのか全くわかりません。

 

国土交通省のホームページの「那賀川の歴史」に、その答えがありました。

那賀川の水の利用 (大井手用水堰等)

那賀川は、那賀平野の穀倉地帯を潤す水源としても大きな役割を担ってきました。那賀川におけるかんがい事業で最も古いものとしては、大井手(おおいで)用水堰(1674年)があげられます。当時の堰は木杭に石を詰めた簡単なものであったため、洪水のたびに決壊、流出を繰り返していました。大井手用水堰の修築も難工事を極め、藩命を受けた佐藤良左衛門(2代目)はその娘を人柱に立てようとしましたが、藩公からの使者がこれを止め、代わりに観世音を埋めたと伝えられています。現在は、上広瀬堰、下広瀬堰とともに統合され、北岸堰となっています。

ここにも人柱が書かれていました。

 

 

利水のための堰だけでなく治水事業についても書かれていました。

 

江戸時代の治水事業(霞堤、万代堤、水はね岩)

那賀川における治水事業は、江戸時代に、下流に開ける平野部を洪水から守るために随所に築かれた霞堤(かすみてい)(不連続の堤防)に始まるといわれており、代表的なものとしては、万代堤(ばんだいつつみ)があげられます。万代堤は吉田宅兵衛が私財を投じ、三代にわたって取り組み、当時としては本格的な堤防でした。また、宅兵衛は台風時の荒れ狂う水の勢いから堤防を守るために、牛枠(うしわく)、水刎(みずはね)岩(現在の水制)などの水防方法を考案しており、覗石山(のぞきいしやま)から落し入れた巨石は、「古毛(こもう)の水制岩」として現在も残っています。

 

明治以降の治水事業(ガマン堰)

明治時代には、那賀川の洪水から羽ノ浦(はのうら)町の商工業地域を守るために、小洪水は断ち大洪水の一部を派川岡川に越流させて、本川の洪水流量を低減させる堰と堤防を兼ねた「ガマン堰」が築かれました。洪水の度に「我慢せい」と慰め合い。補修工事では重労働を「ガマン」したことからこの名がついたと言われています。

人々の苦労が直接名前になったこんな建造物の記憶はなかったので、ますますこの場所を見てみたくなりました。

 

国土交通省の「日本の川」は河川について歴史がまとめられていて、本当に勉強になります。

四半世紀前にこうした資料をまず読むことができたら、上流から下流までのそれぞれの地域の治水や利水によって得ることと失ったことの歴史をもう少し想像できたかもしれません。

 

時代の変化や現実の問題の葛藤を知らなかったのに、「公共事業」への批判という過度の一般化ともいえる動きに加担してしまったと思い返しています。

 

 

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